遊化の森

タオ

4時起床。洗顔、コーヒー沸かし。簡単な立禅。馬歩。自己流簡易身体慣らし法「桃五式」で身体をウオーミングアップ。そして坐忘。いまの感じでいえば「坐忘」こそが本体であって、「出神」はその副産物という気がしている。「坐忘」を本格化することは、実はどこからどこまでが「本格化」であるかどうか、なかなか難しい。何度かにわたって、次第に深めていくのが小生の方法。その間に少時インターバルを取り、その後再び「坐忘」。これを三クールぐらい行うのが現在の私の方法。その中で、「気」感のいい日には、天頂と足裏がジンジンしてきてひとつの「帯」でつながる感じになる。天頂から胴にかけては、ひとつの光の空洞。この時天頂付近はむしろ痛くなり、やがて「出神」がひとりでにはじまる。意識体がゆっくりと出始め、下丹田から板のようなものが上がってきて押し上げ、完全に出ると天頂部にその板がフタをする感じ。頭上に意識を置くとそこには「意識体」の存在があり、外観に従ってゆるやかな刺激を感じる。感じているのは脳内かもしれない。最近はその「意識体」がごく周辺を歩くようになっている。それは若い武人のようでしきりに如意棒(のようなもの)を使っていくつかの棒剣術のカタを行う。動きは活発で、万事においてモノ静かな印象の私、どちらかと言えば思索的な自分とは似ていない。これは何を意味しているのだろう。目の前のテーブルの上で盛んに演武しカタを決めたりいている。それで近くにある、私の念持仏とも言うべき観音菩薩から「心静かに沈思しなさい」と諭されて静まったり。何だかこれではまるで「孫悟空」。その後頭上に返し、しばらく意識を集中、周辺の「光」を集約して体内に入り始まる。これも為すがまま、自然に、ゆっくりと時間をかけて「収神」。これらの一連の動きの中で、心が全く静まり、動かない時があり、その時は何故か「造物主」と一体、いやむしろ「造物主」そのものとの感じがある。今はこれが「タオ」だという感じがしている。その先にはもはや何もない。宇宙を作っている「要素」そのもの。「出神」においても、また体内における「坐忘」においても、それと同一になる時、それは「タオ」ではないかと言う気がする。なぜか同一であって「一体化」ではない。今日は連休の始まりで、以前申し込んでおいた日帰りバス旅行。本当は伊豆の温泉一泊など行きたかったが、連休で値段も高く予約がとれない。そこでやむを得ずバス旅行にしたのだが、東名経由で沼津御用邸ー西伊豆の三津浜ー熱海姫の沢公園ー箱根山のホテルという行程。いずれもつつじと石楠花のきれいなスポットで、なかでも山のホテルのつつじは品がよく、手入れが行き届ききれいだった。三津浜は目の前に海が開け、寿司食べ放題のプランだが、私には食べ放題もあまり興味がなく、料金から言っても止むを得ないと思った。往路は流石に連休で混んで御殿場まで三時間もかかったが、帰路は空いていて夜八時半に新宿についた。そのまま近くの飲み屋で十時近くまで飲んで帰路についた。
by yuugean | 2004-05-01 09:01 | 2004
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遊びをせんとて生まれける  学びせんとて生まれける

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