遊化の森

車中出神

この調子でいけば今年は「空梅雨」。梅雨前線はまだ太平洋上にあって、列島までは上がってきていない。というより北の高気圧が頑張っていて、通常日本列島の上に1ヶ月以上も停滞する梅雨前線は海上に厚くかかっている。ただその雲の層の広がりは、日本列島の上にまで広がっていて、曇りの日が続いている。入梅で雨が続いていた沖縄もそろそろ「梅雨明け」だという。やはり気候の軸が狂ってきている。昨夜、3チャンネル与謝の蕪村の「屏風絵」を特集していた。あの時代、おそらく市中に埋もれて生きていた与謝の蕪村。その芸術だけが、現在も光芒を放っている。いつの場合もそうだが、生きている時代、蕪村はいわば放浪の生活を送り、地方の有力者に飲食の世話になりながら代償に「絵」を描いた。当然当時も俳人として、画家として知られた存在だったが、現在の我々が見る評価よりもはるかに低い評価しか受けていなかったことだけは確か。それでも蕪村は決して手を抜かなかった。その技術の確かさ、高さは当時の人達には見えていない。これはいつの時代もそうだ。現在もまた、つまらないものがもてはやされ真の守るべきものはなおざりにされている。それを見抜くには時代を超えた「目」が必要だが、同時代人はしばしば「流行」「トレンド」に目を奪われ、時代を超えて残るものとは何かという「視点」を忘れている。これはいつの時代もそう、どの国でもそうだ。当時の人は誰も「ゴッホ」の真価を知らなかったが、死後時間が経つとともにその存在は大きくなる。ゴーギャンだって結局タヒチに逃げて、その絵のすばらしさが正統に評価されるようになるのは死を待たなければならなかった。それはともかく朝4時に起き、コーヒー沸かし「坐忘」。「坐忘」から「無為自然」状況に入り、「無為自然」のまま「出神」。このところ感じるのは、「意識」がさらに澄んできた感じがあること。間雑物がなく、「陽神」はからだの隅々まで賦存して一体であり、澄んでいる。これはあるいは一時的な天候の影響による現象かも知れないが、そういう感じが出てきている。現在「出神」は一日4-5回やっているが、当然通勤電車の中、満員の地下鉄の中でつり革につかまりながら「出神」-「収神」をやらなければならなくなる。最初はいささか戸惑いがあったがもう慣れてしまって、一種の習慣になっている。もちろん周辺を遊歩するのは自宅での早朝の「出神」の時のみ。満員の地下鉄の中での15分や、その前の座席に座っての20分ほどは、「出神」ののち、頭頂周辺の「光の輪」のなかに「陽神」を入れ、しばらく温容。そののちに「収神」。それを15分ぐらいの間にやってしまう。これはもう毎日の習慣で本人には何の違和感もないが、周囲の人達はどうなんだろう。今年いっぱいは夜間の「出神」はやらないが、来年になれば夜間にもやることになり、遊歩の距離や時間を延ばすこともできるようになるだろ。
by yuugean | 2005-06-20 16:26 | 2005
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