遊化の森

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実感

4時過ぎ起床。最近は快晴が続く。その気配は既にベッドの中で始まっている。以前あったように4時前後になると、身体の、いわば「内身」が貼りついている(?)縁辺部が電磁的な揺らぎを開始する。いうなれば「万物」がこの時目覚める気配。日の出は現実には6時だが、既に「夜」は終わり、「朝」が目覚める時で、それに呼応して「万物」が目覚める。以前、これはもう10年近く前、やはり「夜明け」の時期に体中の全ての細胞が目覚め動き始めるのを感じた。それはかなりしばらく続いたが、身体が慣れてくるのかやがて途絶えた。今は身体の中に貼りついている「内身」の縁辺部でそれが起こっている。今朝はその後起床、いつもの通り洗顔、コーヒー沸かし。それから1回目の坐忘。この坐忘はまず準備体操。目光、耳光を身中にはりめぐらして身体を整える。その後場面を変え、さらに2回目の坐忘。ここでは「定」から「大定」に入り、まず天頂よりゆっくりと「光」の輪を出す。日によって「光」が明確に見える日とグレイぽくみえる時がある。「大定」の中で「意識y」中心をもうひとつの「意識x」中心と合体させる。そうしてしばらくすると、その「意識」の中心をはじめ内身全体が、ひとりでにゆっくり、本当にゆっくり上昇し始める。上っていくのを別の「意識」が感じている。これは以前、「十月養胎」の時、「胎」を「下丹田」から「中丹田」、「中丹田」から「上丹田」へと順次「移胎」した時の感覚と同じだ。自分の体内からぼんやりとしたスライム様のものが本当にゆっくりとしたスピードで上っていく。何の「意」も使わない。ただ身体全体を緩め、じっとしていると自然に天頂から出て、頭上に「意識体」が出るのがわかる。その後「意識」は体外にあり、頭上にある。約10-15分そのままの状態で、時には頭上の「意識体」を整備する感覚で「目光」「耳光」を各所に這わせる。その「意識体」が宇宙の広大な中にいま立っている実感。そのまま「大定」に至れば、何故か足裏がじんじんする感覚。「大定」に入っているのは「意識体」の側だが、現実のわが足裏がじんじんとしてくる。暫時経て、「意識体」に周辺の「光」を丁寧に取り込み、全体を体内に取り入れる。先と同様に確かに下に下りてくる感覚が天頂ー脳内ー体内と次第に下に伝わってきて、やがて止まる。毎日決まった時刻に10-15分ほど、こういった行動を繰り返している。それとともに、かえって体内にある「意識体」がしっかりとしてきたのを感じ取る事ができる。時々天頂部や脳内上部に圧力感があるが、それも何か「固まっていく」感覚。いまはこの程度の感じだが、これをあと三年も続ければ、少しははっきりとした形になってくるだろうという気はする。体内のみで修練していた時と、体外に出す修練を始めてからでは、自己意識に大変変化があるように思われる。何か、これまで以上にモノがはっきりと見え(深層まで)、人間の姿(深層まで)がはっきりと見える。そして自分の行くべき先もよく見えている、そんな感じが強い。やはりこれはひとつの「誕生」。内身のみの時代にはなかった感覚が生まれ始めている。今後の終生続く行の第一歩。この日は快晴で例の通り午前中はオフィス。昼食は待ち合わせて銀座7丁目の「古窯」。ビーフシチューが評判の店で1時過ぎなのに店内は込んでいた。客あしらいもいい。その後上野の東京都美術館で「大英博物館展」。週日だというのに大変な込みようで一体何が不況なのかという気がする。紀元前3000年ぐらいのアッシリアなど中東の遺物に見るべきものあり。この間の「トルコ三大文明」でもそうだが、いまのイラク、イラン、トルコといった中東地区に極めて高度な文明がいまから5000-6000年前にあったことに深い感動を覚える。まだ高々300年の新米のアメリカがこの地を支配しょうとしても、どだい無理な話だ。
by yuugean | 2003-10-30 11:18 | 2003

第一歩

5時過ぎに起床。今朝はまず昨夜のことから書かなければならない。昨夜、正確には今朝1時過ぎ例によって坐忘。「定」に入り、sらに「大定」に至る。「大定」の朦朧の中でなぜか「空!」「柳!陽」「!三ボウ」の三師に囲まれている。「どうしたらいい」とどこからともなく声。やがて「大定」の中で、ひとりでに「意識y」が「意識x」(ポインターで指すように所在が点滅)の中に入り込んでゆく。さらに少時、こんどはひとりでに「意識x」を中心にした「胎」とおぼしき「白濁体」が肉体から離れ、上に向いて浮き始める。「これが出神」と別の「意識」が言っており、あわてて頭上に「光」の風船のようなものを出す。その中に「胎」がゆっくり上がっていく。それは決して引っ張り上げるのではなく、自然に上がっていくに任せる。最後に脚のようなものが、のどのところに引っかかっているので、それを押し上げる。「これが出神?」という思い。約2分ほどそのままにして、やがて体内に納める。全部納まった気配がして、その後しばらく「胎」の各所を「意識」でもって調整し目をあける。覚醒してすぐに「出神」についての参考書を読む。そこには「達磨の法」として次のような記述があった。少し長いが引用すると「陽神の出し入れには注意しないといけない。風が吹けば吹き飛ばされるし、烈日にさらされれば乾燥する。特に風の日は注意。毎日の出神は必ず規則的に行うべきで、好き勝手に出し入れしてはいけない。出神の回数は三月までは一日一回。夜はやってはいけない。半年以降は一日三回、一年以後は一日七回行う。なお陽伸はまだ自分の範囲においておき、歩かせたり、手足を動かす程度にする。二年目以後は昼だけでなく夜も出神をしていい。三年目以後は一里、十里、百里、千里、万里と一瞬のうちに行かせられる様にする」。今朝一時過ぎと言えばまさに「夜」。通常は「夜行ってはいけない」と言う事だが、この夜の体験は少しオカルト的だが、どこかから「教え」があったものとして、「もうやってもよい」という教えのように解釈し、翌日から朝行うように決めて眠りについたのが昨夜。実は8月末の大変天気のいい日、朝から坐忘していると、なにか全身が沸き立つような感じで、その勢いで少しの間「出神」を果たした。それで今朝、5時起床の後、歯磨き、コーヒー沸かし、そして坐忘。坐忘のなかで、まず「定」に入り、そして「大定」に入り「出神」の方向へ。その中でやはり「意識y」が「意識x」の中へ入っていく。「意識x」の所在はx印で指すようにはっきりとわかる、二つの意識が合体し少時、「光」の風船カプセルを頭上に出して待つと、こんどは「胎」がゆっくりと自然に上昇はじめる。そしてゆっくりとひとりでに風船カプセルの中に入っていく。入るのはスムーズだが、やはり脚のようなものが喉に引っかかる。それを下から圧力で押し上げ完了。「胎」の形は、体内にあるよりはむしろはっきりとしているように見える。「意識」が体外の頭上の上にあるのがわかる。そこから見回している感じ。「胎」は時に赤みがかっていたり、金色だったりする。黙って立っている。足裏が天頂に触れている。身体は思ったほど大きくはない。四囲を見回す感じもある。意識は体外の頭上にある。その間約5分、「胎」を体内に納める。体内の主要部分にひとつひとつ納まって行くのを感じ、再度「意識」で「胎」の各所を調整して終わる。「出神」の最中に「この時目を開けたら何が見える?」という考えが一瞬よぎったが、何かよからぬ予感がしてやめた。実はすでに八月二十八日の早朝、初「出神」の「試し」を行った。「規定」から行けば、今年いっぱいはまだ三年乳甫の準備段階。先を急がず大事を取って今年末まで待ってみる気持だったが、昨夜(今朝1時)過ぎの奇妙な「体験」を経て今朝の「出神」となった。これはむしろ今後の終生続く行の第一歩に過ぎないと思う。
by yuugean | 2003-10-26 11:20 | 2003

完全受身

4時過ぎに起床。朝起きて歯磨き、コーヒー沸かし。坐忘。また天候不順で朝方は少し寒い。昨日は急な大雨が降り気温は下降した。この前「現在は一種の平板期」とこの日録にも書いたが、その理由というか、それを乗り越える法がなんとなく浮かんできて、それを試すと再び以前のような「気感」が身体の中に戻ってきたような気がする。土曜日から月曜日まで連休で、この間にに昼間も坐忘を修練する時が何度かあった。以前は、坐忘にはいるとわりとすぐに「意識体」の辺縁部で「チリチリ」というような電磁感が無数に発生して、その電磁感に身を任せていることは大変気持ちがよく、いかにも「仙道」という感じがしたが、それがいつしか止んでいた。これはいつもどおり「昂進期」のあとに「平板期」が来て、それらの「動き」が止まったためと思っていた。「昂進期」で起こってきたものが、ひとわたり行き渡ると「平板期」には入り、また次の「昂進期」の準備をしているのだと解釈していた。そんな感じがする。そういうときは何度か坐忘を行い、たとえ行果がなくとも繰り返すという姿勢で貫いてきた。人生と同じで山あり谷ありなのが「修練」と思っていた。そんな時でも何度目かに坐忘に入ると、足の裏が「ジンジン」としてきて、やがて「内身」の電磁感が復活してくる。ただこのところ、坐忘の中で、しきりに何かの「顔」が見え始めて、それはよく見ると西洋の中世の「騎士」の顔みたいだったり、その「顔」がこちらに向かって何か叫んでいたりした。別の顔(やはり西洋人)が出てきたときもあった。そこで展開されるのは多分何か私と縁のある物語である可能性もあるが、いつもそんな時はやり過ごして、そこにのめりこんで行かない姿勢でやってきた。「仙道」ではこういったイメージの起こる事を決していいこととは考えていないからだ。「魔」という表現をすることもある。昨日の坐忘の中で、それらのイメージが現れる理由のようなものがわかってきた。それはこの間から、仕事の方向を考えたり、来年の計画を練ったりしていたが、それは取りもなおさず「後天意識」の活用によるものだった。これまでの「仙道」の修練で「滅却」してきた「後天意識」がまた復活してくる状況が生まれつつあったのだ。それが「心」の中の「魔」(イメージや幻像)を引き連れて復活しようとしていたのかもしれない。何故かそのことに気づき(これも修練を導く天の声かも?)、再度「後天意識」の滅却の修練を繰り返すことに思い至った。それは「坐忘」の最初の頃に、何度も繰り返して「後天意識の滅却」を可能にした修練(思えば、この方法もインスピレーションで天から授かった?ものだった)を再度何度かおこなった。それは意識を「完全受身」の状態に保つ事。それを何度か繰り返すと、再び以前の「気感」が戻り、坐忘に入るとすぐに始まって今や完全に以前の状態に復帰する事が出来たと思う。例の通り7時15分家を出て飯田橋で少憩。いつもの通り午前中はオフィス。午後から経済産業省。仕事の終了後、いつもどおりささやかに鍋で小宴。いつもどおり談笑を楽しむこと2時間。終わってその後パソコンに取り付き11時。坐忘の後、12時前睡眠。
by yuugean | 2003-10-14 11:22 | 2003

お通夜

5時過ぎに起床。朝起きて歯磨き、コーヒー沸かし。坐忘。たしかに今は「平板期」かもしれない。しかし辛抱して5分ぐらい坐忘を継続していると、まず足の裏あたりがジンジンとしてきて、以前のように「内身」が読み取れるようになってくる。そしてさらに坐忘を続けていると、脳の天頂から内側にかけて筒状の感覚があらわれ、筒の内側が時々圧力感を持ってくる。天頂部が少し陥没しているようなイメージも現れる。これは一体何を意味しているのかわからない。そして「内身」に少し電磁感が出てきて、目光、耳光でこれを見ていると、気持ちが大変いい。それと最近の現象は、別に坐忘していなくても、歩いていても、あるいは座席に座っていても、天頂部がなにか、ひえひえの感じ、あるいは何か蠢いている感じが常にしている。これは一体何を意味しているのだろうか?多分次の段階への準備を始めているような気がする。本日は例の通り7時15分家を出て、飯田橋で少憩。仕事の準備をする。午前中は事務所で仕事。午後からいつもの通り経済産業省へ。仕事終了後、今日はs君のお母さんのお通夜。王子から20分ほどの自宅で行われたが、この地に古くから住んでおられる一家なので、近所の人達総出で沢山の人が訪れたお通夜だった。私もこの家には4-5回お邪魔してお母さんとも何度もお話した。孫達も沢山参集し、座敷いっぱいで入りきらない状態で、多分故人も喜んでおられるだろうと思う。心からご冥福をお祈りする。終わって池袋に出て帰宅。食後少し休む。坐忘の後、12時前睡眠。
by yuugean | 2003-10-09 11:23 | 2003

もはや晩秋

4時過ぎに起床。朝起きて歯磨き、コーヒー沸かし。坐忘。もうたしかに10月で、季節は秋だが、このところの気温は「晩秋」のものに近く、朝方は少し寒い。このところは一種の「平板期」に入っている。季節が変わる境目のせいか、「気感」はそれほど強くない。いかしさらに保持して時間をかけると、脳ー内身が一体となったズンドウの「意識体」?が現れてくる。1ヶ月ぐらい前は、その時には「意識体」の辺縁部で「チリチリ」というような電磁感が無数に発生して、ある意味では気持ちがよかった。その電磁感に身を任せていることは大変気持ちがよく、いかにも「気功」、いかにも「仙道」という感じがしたが、いまはそれも止んでいる。これは何も後退しているのではなく、以前から度々経験したことだが、「昂進期」のあとに「平板期」が来て、それらの「動き」が止まる。それは次の「昂進期」の為の準備期かも知れない。「昂進期」で起こってきたものが、ひとわたり行き渡ると「平板期」には入り、また次の「昂進期」の準備をしている。そんな感じがする。「平板期」とはいってもいろいろな変化がある。二度目に坐忘に入った時、足の裏が「ジンジン」としてきて、やがて「内身」の電磁感が復活してくる。その中に身をゆだねている時、今日ははじめ目の前の幽暗の中から、しきりに「顔」が見え始める。その「顔」は最初法隆寺の「救世観音」のようだったが、それはよくみると西洋の中世の「騎士」の顔だった。鎖で編んだ鎧で全身を固め、手に長槍をもち、馬に乗ってこちらに向かって何かしきりに叫んでいる。背後にはスコットランドかどこかのような城があり、それが炎上している。それを指差してしきりにこちらに向かって叫んでいる。精悍な顔、薄く髭を蓄えた30前後の中世西洋人の顔で、目つきはなぜか悲しげだ。しばらくその情景に見入っていたが、そこに入っていくのは止めた。おそらくずっと物語が展開していくにちがいない。何か私と縁のある物語であるという場合もありうると思う。しかし「仙道」ではこういったイメージの起こる事を喜ばない。「魔」という表現をすることもあり、それに心を奪われると、修練で「滅却」してきた「後天意識」がまた復活してくるという。今日の修練はそこで終わる。例の通り7時15分家を出て飯田橋で少憩。いつもの通り午前中はオフィス。実は仲のいい友達s君のお母さんが、夏から入院されていたのが、この日曜日(5日)早朝5時過ぎになくなった。92歳だった。何度か実家に伺いお会いした事があるが、東京生まれの人らしく、しゃきっとしていて、しかもやさしく暖かかった。心からご冥福をお祈りする。仕事終了後、いつもどおりささやかに鍋で小宴。いつもどおり談笑を楽しむこと2時間。終わってその後パソコンに取り付き11時。坐忘の後、12時前睡眠。
by yuugean | 2003-10-07 11:25 | 2003



遊びをせんとて生まれける  学びせんとて生まれける
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