遊化の森

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出神と脱糞

6時起床。やはり10日間海外へ行けば、旧に復するには10日ぐらいかかるのだろうか。以前は朝4時には目が覚めていたが、今は6時にならないと目が覚めない。帰国してすぐに「演武会」などがあり、身体を酷使している感じもある。今回のイタリヤでは同行のS君のカソリック旧跡を周りたいという希望を入れ、10日間でミラノ、ベネチア、フィレンツェ、ローマ、ナポリと延泊までして主要都市全部をまわり、おまけにサン・マリノ共和国、アッシジのフランチェスコ修道院、ポンペイを見てまわった。前回のイタリアは仕事だったので、観光はあまりできず、今回は観光スポットを総ざらいした感じで、身体的にはきつい。私としては、フィレンツェの城の背後の大きな公園での昼寝とか、ローマの広壮なボルゲーゼ公園で二人で演じた太極拳とか、そういった市民が憩う場所での「のんびり」とした時間のほうが好きだった。この次行く時は、ローマとベネチアぐらいにして、街の中で観光客としてではなく、いかに市民同様に「ゆっくり」過ごすかという点に視点をおきたい。今日は日曜日なので6時起床、歯磨き洗顔ののちコーヒー沸かし。それからいつもどおり「坐忘」ー「出神」-「収神」の修練。こちらのほうは既に旧に復した感があり、あまり手間取らずに通常修練に入れる。最近思っていることは、例えは悪いが「出神」は、「脱糞」と同じようなものではないかという感想。神聖なる「出神」を「脱糞」に例えるのはどうかと思うが、両方とも定期的に出来るだけ決まった場所で執り行うのが望ましいということ。それと、基本的には決して無理をせず、自然に行動がはじまるのを待つということ。そうすると、双方とも「動意」があり、ごく自然に身体から出て行くということ。ゆうくりと何の力も加えずに「自然」おままに任せるほうが気持ちがいい。そして、それは本人には充分に感知されること。すべて出切ったかどうか、中途か。あるいは硬いか、柔らかいか。その日の調子も、出ている様子も、本人には、目視せずとも充分に感知できる点も似通っている。終わったあと「すっきり」というのも同様。違うのは終了後で「脱糞」はそのまま水に流すが、「出神」は「温養」し再び体内に戻すという点だ。今日は日曜日で「太極拳」の練習日。7時半に自宅を出て、会場の秋葉原に向かう。久しぶりに早く家を出たがまだ本調子でないのか乗る電車を間違えてしまった。9時にマックで待ち合わせ、会場の「昌平校」へ。例の通り八段錦、伸展法、「簡化式」(24式)、小憩後、「肘法」を80まで。それから「老架式}(88式)を修練。終了後「万世」でビール付の昼食、夜は例の通り小宴。今夜は久々に鍋(湯豆腐)となった。
by yuugean | 2004-10-17 10:06 | 2004

復旧へ調整

6時起床。イタリアから帰って、ようやく時差にも慣れてきた感じ。以前は、こういう時「メラトニン」のお世話になって、くすりによって「時差」を解消していたが、今回は自然に解消するに任せることにした。帰ったのは8日、その後連休に入ったが、11日には太極拳の秋季演武会が昨年同様に目黒区スポーツセンターで10時より開催されたので参加した。「楊心会」各支部から約200人が参加し、プログラムに従って太極拳を楽しんだ。「簡化式」(24式)を二回、「老架式}(88式)を二回、「陳式」を一回演武し、「肘法」など拳法も少々。4時に終了し、5時から都立大学駅前のイタリヤ料理の店で「宴会」。何人かの人と歓談した。イタリヤ、太極拳大会とこのところ少々身体を酷使しているのでここ2-3日は休養モードで過ごしてきた。そのせいでか、このところ起床は6時ごろと遅い。もっとも最初の頃は、「時差」のせいで夜12時ごろになると目が覚めて起きていたが、今はそれも消えた。起床後はいつもの通り「坐忘」ー「出神」-「収神」。現在のやり方は「達磨の法」に従って1日2-3回の「出神」を行っているが、その日の状況によって、修練の「濃淡」は変わってくる。イタリア滞在中も毎日1-2回はやったが、最初は身体が疲れていたり、イタリアの大気がこれまでやってきた日本の大気と違って、水分の極端に少ないせいか、正直言ってあまり「濃い」修練とはならなかった。帰国後も出来るだけ同じ調子で続け、2,3日後からは完全に以前の状態に復してきた。「坐忘」に入り、徐々に深度を増していけば、やがて「意識」の「変性」と思われる事態が身体の中に起こってくる。その「変性」の中で自然に任せていると、やがて「意識」がゆっくりと上昇をはじめ、自然に「出神」を始める。これは自分の意識の中ではっきり読み取れる。それを先にうっすらと広がっている「光の輪」の中へ入れ、しばし「温養」。その後「法身」に光を集め、「大周天」を三回修練、法身を少し離れた場所に移し「温養」。その後再び「光の輪」(天頂)に戻し再び「光」を法身に集中して、その後「収神」体制に入る。「収神」は、それを意識すれば即座に始まるが、まず天頂から「下丹田」へ入れ、下肢の隅々まで展開、ついで「中丹田」に入れ、上肢の隅々まで展開する。その後「上丹田」にいれて、全身に対し二、三度「目光」「耳光」を展開して終わる。あと少しで「出神」修練も1年となり、「1年後は1日7回の出神」という「達磨法」に従って、1日7回の出神を行うことになる。1日7回の出神となれば、場所を選ばず、時を選ばずということになるが、あまり深く考えず、自然のままに任せる積り。却ってその方がうまくいくという気がする。今日は自宅での時間の大半をパソコンの調整に費やす。時間がたつと自然にクッキーにもいいろいろなバグがたまり変なモノが挟まっていたりするので時々は時間をかけて再調整することが今の時代には欠かせないと思う。夜就寝前には再び「坐忘」。
by yuugean | 2004-10-14 10:08 | 2004

帰国

  5時起床。今日はイタリア最後の日。14;50ローマ発ロンドン行きのアリタリア便でロンドンに行く予定。シャワーで身体を覚まし、いつも通り「坐忘」ー「出神」。今日はゆっくりめにレストランに行き朝食。帰国の用意は昨日のうちにすっかり整えた。あとはこまごました点検を残すのみ。昨日ホテルのフロントで、英語を話す中年のフロント係に空港へ行く「リムジンタクシー」を頼んである。もともとリムジンバスがあれば空港まで行きたいと、このフロント係りに質問したがローマでは空港行きのリムジンバスはないとのこと。そこで彼の勧めで「タクシー」を依頼、料金50ユーロは相場だった。誠実そうなこのフロント係りのおじさんにはいろいろお世話になったので、タクシー依頼手数料を含め、少し多めに10ユーロを渡し「大変おせわになりました。全部よかったです」と言った。
 ホテルを出発するまで少し時間があるので、8時頃ホテルを出て、ボルゲーゼ公園に向かう。松の多いボルゲーゼ公園は静かでそこだけ空気が澄んでいる。犬を散歩させる人が何人かいて、犬連れの仲間同士で立ち話をしている。広いボルゲーゼ公園を貫いている道を、急ぎ足でサラリーマン達が通り過ぎていく。松林の清らかな空気に触発されて、公園の芝生に入り込み、二人で太極拳(24式)を演じた。三回演じたが、通り過ぎるサラリーマン達が振り返って見て行くが、少しも気にならない。
  ボルゲーゼ公園はそんなことが少しも気にならないくらいに広大だ。再びホテルに戻りロビーで待っていると、チャーターしたタクシーが迎えに来た。フロント係りのオジサンは荷物をタクシーまで運んでくれ「もう一度来て下さい。再度会いましょう」といって固く握手した。タクシーは無事空港に着き、食事とショッピングを空港ビルで行い、14;50発のアリタリア機でロンドンに向かう。ロンドン空港ではトランジットの身分で、次の飛行機が来るまで待機。そこでいかにも英国風な「免税ショッピングセンター」に入り、ユーロをポンドに換え、ちょっとした買い物をし、パブで飲んでいるうちに出発の時間が来た。19;25分ロンドン発のJAL402便で成田へ向い、翌日7日15;30分成田へ到着し、10日間のイタリア旅行は無事終了した。
by yuugean | 2004-10-06 18:38 | 2004

ローマー最後の審判と再会

 d0098440_19484030.jpg  5時起床。今日は一日中ローマ観光。シャワーで身体を覚まし、いつも通り「坐忘」ー「出神」。いつも通りのことなので別に特記することなし。7時にレストランが開くと朝食を済ます。アメリカ人の団体がいっぱいいて、こちらも朝早くの出発のようだ。8時前にホテルを出て、ボルゲーゼ美術館の予約が9時に取れているので、ホテルの前から通りを越して、ボルゲーゼ公園の中に入っていく。
  ボルゲーゼ公園はもともと17世紀のボルゲーゼ枢機卿の別荘だったところで周囲6キロに及ぶローマ最大の公園。枢機卿は芸術に貪欲で自分が手に入れたい美術品はどんなことをしても手に入れた。教会の壁に描かれた壁画を壁ごとはがし、気に入った画家の作品総てを手に入れるため、その画家を投獄し、その間に手に入れた。そういうボルゲーゼ枢機卿が集めた美術品を展示しているのが「ボルゲーゼ美術館」。事前予約が必要で、これも日本にいるときに「予約番号」を取っておいた。時間は9;00。
  ゆっくりと公園の中を歩いて美術館に行くとすでに40人ほどの列が出来ていた。待つこと30分ほど、すでに入り口に達していたがまだ窓口まで距離があり、すでに9時になっている。よく見ていると受付が何か言っているので、列を外れ10人ほど飛ばして先頭の窓口へ。結局これは「9時予約の方はもういませんか?」といっていたので、行動は間違っていなかったのだ。
  美術館そのものの建物も私邸として大変興味があるが、ここに展示されている、ベルニーニ「アポロとダフネ」「ダヴィテ」、ティツィアーノ「聖愛と俗愛」、アンドレア・デル・サルト「聖母子とヨハネ」、カラバッジョ「病めるバッカス」など知る人ぞ知る名品の数々は新たな感動を呼ぶ。展示品を見終わって、中庭で小憩し「ボルゲーゼ美術館」を後にした。その次は「ヴァチカン美術館」が目当てで、ここは大分並ぶことを覚悟しなければならない。
  急いでボルゲーゼ公園の端にある地下鉄入り口から地下道に入る。しかしこの地下道は「スペイン広場」と「べネト通り」を結んでいる、1キロ以上にもわたる地下道で「駅」まではなかなか行き着けない。結局「スペイン広場駅」に出てしまった。その上切符の自動販売機が壊れている。そこで地上に出てスタンドで「1日券」を買い、地下鉄の乗って「サン・ピエトロ」で下りる。地下鉄の駅の階段でジプシーが幼い子供を抱いて物乞いをしている。
  地上に出て、人々の流れについて歩いていくと自然にヴァチカン美術館に出る。以前12年前にヴァチカン美術館に来た時は、街路でFさんがジプシーの子供達に襲われ、ポケットまで手を突っ込まれた。Fさんは金張りの時計をしており、いかにも金持ち風に見えたのだろう。その時、私にはすぐ近くにいるジプシーの物乞い老婆が子供達を遠隔操作し「襲え!」という命令信号を子供達に出しているのが判った。
  今回もそれを警戒していたが、ついになかった。おそらく何年か前、イタリア警察が悪名高いジプシー・スリ軍団の一掃に乗り出したに違いない。ヴァチカン美術館の観覧方法も大きく変わっていた。入り口のラセン階段は取りやめ、スロープ階段に変わっていたし、内部はもっと劇的に変わっていた。以前は途中にヴァチカン図書室があり、古い金装丁の本が何冊も本棚に並んでいたし、長い直線的廊下を通って行き着く所に「システナ礼拝堂」があった。
  しかし、今は展示の経路が複雑にヴァチカンの中を経巡っており、100近い展示室に、エジプトのミイラから現代美術までが展示されていて、なかなか「システナ礼拝堂」には行き着けない。やっとシステナについたころは足は棒のようになっていた。しかし「システナ礼拝堂」にミケランジェロが描いた天井画「天地創造」と正面の壁画「最後の審判」はその気宇壮大な構造に心が躍り、そして和まされる。
  私にとって、今回のイタリア訪問の目的の第一は「最後の審判」に再会することだった。以前来たのは「最後の審判」に絡んだ案件だったが、当時は日本の日本テレビが資金を提供して「大修復」が行われている最中で、至るところ足場が組まれていた。仕事上「修復」の日本側責任者と会ったのも懐かしく、このときの経験は拙い小説「最後の審判」にまとめた。「最後の審判」は健在で、時間の許される限り、多くの観覧者に混じって佇んでいた。「ヴァチカン美術館」を出て、その前の売店でビールとピッツアを買い簡単な昼食をし、小憩の後「サン・ピエトロ大聖堂」へ。広場を過ぎてセキュリティ・チェックを終わり、列が出来ていたので並んだら、それは結局「大聖堂」の天井に上る列だった。
  大屋根に上り、ローマの街を見下ろし、天井の両脇に作られた回廊から「大聖堂」の内部を見下ろし、降りてきて「大聖堂」の内部を見て回る。以前はもっと自由に「大聖堂」内部にはいれたと思うが、これも新しい方式のように思われる。私の好きな「ピエタ」(ミケランジェロ)も以前は手で触れるような位置に展示されていたが、いまははるか後方のガラス室に収められている。大祭壇の下にある、法王などの墓への入り口も厳重に閉められ、内部を覗くことは出来ない。「大聖堂」で結構時間を食ってしまったので、急いで「トレヴィの泉」に向かう。そこで小憩し、その後歩いて「スペイン広場」に向かった。裏通りの細い道を歩いていくと目の前に「スペイン広場」。相変わらず広場は混んでいた。
  すでに夕刻がせまっており、かってブランド通りとして盛名高かった「コンデット通り」も、現在のように有名ブランドが目白押しの最近の銀座を知っていると、色あせて見える。その後、地下鉄に入り、「真実の口」や「コロッセオ」に向かおうとしたが、ちょうど退社時間と重なったためか、地下鉄車内はサラリーマンと観光客で超満員の状態。二列車を乗り過ごしたが、相変わらず超満員なのでさすがに乗車意欲はなくなり、そこから地下道を通り徒歩でホテルに帰った。
by yuugean | 2004-10-05 18:33 | 2004

ポンペイーナポリ

d0098440_19461877.jpg  4時起床。今日は早朝のイタリア国鉄・新幹線「ユーロ・スター」(ES)でローマからナポリに向かい、ポンペイへ。帰途ナポリにより夕刻ESでナポリーローマ。早朝の出発なので4時頃起床しシャワーで身体を覚まし、いつも通り「坐忘」ー「出神」。そしてしばし「温養」、「分身」での「大周天」三回。場所を移しさらに「温養」。その後天頂でしばし「温養」し、周辺の「光」を集中して、「収神」へ。「下丹田」「中丹田」「上丹田」に収め、その後「目光」「耳光」を上・中・下の三丹田に這わせること3回にして終了。5時半頃ホテルを出て、昨晩下見した通りに、べネト通りを下り、共和国広場の地下鉄駅へ。地下鉄駅はまだ早朝だが勤めに出る人達が忙しげに早足で歩いている。
  ローマの地下鉄はA線・B線が中央駅「テルミニ」駅でX状に交差している。「共和国広場」からは1駅の中央駅「テルミニ」駅で下車、地下道を登っていくとローマ中央駅「テルミニ」駅に出る。私達の乗るナポリ行き「ユーロ・スター」(ES)は6時45分発なのでまだ大分時間があるが、まず乗車番線を確認。その後売店でサンドウィッチと飲料を買って待つ。列車は日本でイタリア国鉄のHPから予約し、カード決済し「メール」で確定しているが、どこかで「切符」に交換するのかどうか。
  それが判らないので、JALバスのアシスタントに聞いたり、フィレンツェ中央駅で聞いたりしたがどうも要領を得ない。「メール」には「車内」で車掌から切符を受け取るように書いてあるが、イタリアの鉄道は改札がなく、そのかわり「切符」に改札口で時刻を「刻時」しなければ「違反」扱いで三倍の料金を請求されるシステム。少し心配だが、とにかく証拠の「メール」を持って列車に乗ることにする。
  待っている時、下りのエスカレータの上で中年の婦人が若い男を捕まえて離さず、なにか言いながら揉み合っているのが目に映った。下っていくエスカレータの上に二人とも倒れこんだが、婦人は手を離さず何か叫んでいる。多分あれはスリで、その内周りの人も加勢して、エレベータの上で揉み合いながら下っていった。時間が来たので、入線している列車に乗り込む。
  日本の新幹線と全く同じ。朝早くローマからナポリへ出張する、エリートサリーマンやキャリアガールでいっぱいだ。日本から予約する時、座席の様子がわからないので、航空機のように横並びの二人席を予約したが、通路を挟んだ並び番号だった。向かい合う席にすれば、テーブルもつけて貰えたのでは?と思われた。斜め横のエリートサラリーマンらしいのが、コンピュータを机の上に出して、何やら盛んに打ち合わせしている。今日のミーティングの内容について話している感じ。私の斜め向かいの席は、中年のキャリアウーマンで朝刊を読んだ後、書類ファイルを出して盛んに目を通していた。
  発車して10分ほどで車掌が来たので「切符の交換」を依頼したが、「後ほど回ってきます」という返事。この席はインターネット予約の席だという事が事前に判っているみたいで一安心。さらに20分ほどして二人の車掌が改札の巡回に来たので、イタリア国鉄からの「メール」を出すと「切符」を呉れた。斜め横のサラリーマンの一人も「メール」の入ったファイルを車掌に見せ「切符」を貰っていた。3時間弱でナポリ中央駅。中央駅には二つの駅があり、この列車は地下のガルバルディに到着。
  そこから「ポンペイ」行きの周遊電車の乗り場を探して切符を買う。事前に見たガイドでは、この「周遊鉄道」の切符売り場やホームがわかり難いと書いてあったので、注意して「チンコム、、、」という表示を探してそれに沿っていけば、切符も簡単に買え、ホームにも出れた。ポンペイ行きの電車は大分待って、やっと来た。乗り込むと既に混んでいる。開いている席を探し、隣同士の席は見つからないので、私は黒人のグループが座っている中にひとり座ることになった。まだ若い黒人達でなにか盛んにふざけあっている。彼らはどうも、路上でカバンなど売って生計を立てている出稼ぎ黒人達のようだ。駅に着くたびに、一人ずつ空色の大きなビニール袋を担いで下りていく。その中には多分コピーもののバッグなどが入っているに違いない。彼らのまっ黒の肌と空色のパステル色のビニールの取り合わせが妙に印象的。
  40分過ぎで「ポンペイ」駅に到着。各国からの観光客でごった返した入場券売り場から入場。スロープを登っていくと、古代ポンペイの膨大な遺跡が順次目の前に展開されていく。二年前東京上野で「ポンペイ展」があり、その時見た中で、ベスビオ火山噴火で一瞬にして死んだ人達の石膏型や当時既に使われていた上水道の錆びた金属管が目に焼きついている。三時間ほどかけて各セクションを見て歩く。この街そのものが古代遺跡なので、膨大な数の展示品に囲まれた古代生活展を目の前にみる思い。
  当時の生活を伝える彩色モザイクが床や壁に装飾された邸、パン屋や飲み屋、石畳の道などが至る所にある。そうかと思えば広場があり、パンテオン神殿の遺跡がある。一番奥まったところにあるのは松林に囲まれたコロシアム。客席は階段状になっており、コロシアムの中心部に立てば音響は今もよく響く。その隣には「体育館」跡。紀元前後の、日本はまだ弥生時代の頃の古代の都市で、こういった公共施設や水道、娯楽設備などがいくつも作られたことには驚く。これは古代ローマ帝国の成り立ちにも大いに関係がある。皇帝や司政者は一種の選挙によって選ばれたが、それには市民の「人気」が必要でことに公共設備を完備し、娯楽設備を整えて、豊かな市民生活を作り出す必要があった。
  もちろん膨大な軍事費をかけて、ローマ帝国の拡大をはかり、世界からの富がローマに集まる仕組みが作られていたが、それを維持するには「市民生活」を快適にすることで為政者としての「人気」を保っておく必要があったと思う。「体育館」などは今で言えばフィットネスクラブのようなもので、現代生活と本質は何ら変わっていない。三時間ほど「ポンペイ」を見てふたたびナポリへ。ナポリ観光は予定が別に立ててなかったので、行き当たりばったりで四時間を過ごすことにする。
  まずデジカメの電池が切れたので、駅前でそれらしき店を探したが結局どこも置いていない。あきらめて駅前を通り抜け、ひとつの通りへ入っていった。小さなピザテリアを見つけたので、地元の人に混じって路上のテーブルに着き、マルガリータとビールを注文。釜で焼いているので、マルガリータはおいしく、名もなき店だが「本場」の味。店の人間はみんな親切だった。。    「スパッカ・ナポリ」といわれる旧市街に行きたいという質問にもみんな集まってきて教えてくれる。教えられた通りに行くと、狭い通路に古い石造りのアパートが並びその間に洗濯物が干してあるような、昔のイタリア映画によく出てきた通りに入っていった。延々と続いており、狭い通路や路地を抜けて歩いていると、そこにはナポリ人の生活の匂いが漂っている。時々何か叫んで声をかけてくる男がいる。別に悪いことを言っているのではなく、何か親愛の表現に思われたが無視して散歩。
  再び駅前に出て、今度はバスに乗って「サンタルチア」に向かう。サンタルチアは港に沿って大きなリゾートホテルが立ち並ぶシー・リゾート地帯。そこで下車して海岸沿いを少し歩くと「卵城」が見えてきた。海に突き出た古城で観覧は無料。上に上っていくと、右に左にナポリの市街や海が見渡せ、「ナポリを見て死ね」という言葉が浮かんでくる。帰りもバスにしたが、「ナポリ中央駅」方向のバスに乗った積りが、途中で逆方向に乗っていることに気づく。
  そこで中年のオバサンが親切に教えてくれ、私の降りる所で下りて、「メトロ」に乗りなさいという。それでオバさんについてバスを下り、しばらく一緒に歩き「メトロ」への道を教えてもらい別れた。「メトロ」がこんな所を走っていないという気がしたが、まっすぐ行くと10分ほどで「メトロ」駅についた。大変立派な大理石造りの駅。ここは国鉄の普通列車と地下鉄が共有して走っているようで、やってきた列車に乗ると終点が確かに「ナポリ中央駅」だった。
  18;22分発の「ユーロ・スター」(ES)でローマに向かい20:16分ローマ着。ホテルへの道を歩きながら、少し何でもトマトベースのイタリア料理にも飽きてきたので、今晩はホテル近くの中華酒家「ジャスミン」(JALバスに教わった)に行って見ることにする。洋風のしゃれた感じの店だが客は3組ほど。店内を見渡すと「高倉健」とか「香港スター」などのサインが掲げてある。餃子、焼きソバ、細切り肉など数点を注文した。JALバスのアシスタントによれば「おいしい」ということだったが、味付けが「イタリア風」。なにかトマトベースのような気がした。イタリア人を相手に食い物商売をするのは難しく、日本料理もそのままでは受け入れられないという言葉を思い出した。ローマにいる日本人だけを相手にすれば純粋日本料理でいいが、イタリア人を相手にする場合は、イタリア風味にしないと受け入れられないという。
  以前行ったバンコクのそこそこのホテルで中華料理を注文した時のことを思い出した。どの料理にも「ナンプラー」が入っており、とても「中華料理」といえる代物ではなかった。この店のもそうで思わず「これは中華ではない」と心で呟いていた。イタリアにしろ、タイにしろ、外国の料理をそのまま持ってくるのではなく、その国風に加工して料理する。ところが日本では、イタリア料理は純粋のイタリア料理、中華は中華そのもの、韓国、アジアン、フランスもフランス料理そのものを追及する。
  現在、日本で食べるイタリア料理のほうがおいしいと思う。それは前回来たときからの感想。イタリアでは高級店は流石にうまいが、その他は決してそうではない。中級の料理店というものがない。ところが日本では例えば「プロント」のような店でも、イタリアに比して、3ユーロほどでかなり程度の高いパスタがある。日本人の研究熱心さと本物を取り入れたいという意欲の強さは料金の安い店でもそう変わらない。そう思いながら、今日のことを色々おしゃべりしながら飲んで、そのうち疲れが出てきたので1本表通りの「ホテル」に帰って、いつの間にか寝た。
by yuugean | 2004-10-04 18:26 | 2004

アッシジ、フランチェスコ

d0098440_19441437.jpg  5時起床。今日は朝フィレンツェを発ってアッシジ経由でローマ入り。3日目の朝も、入浴で身体を覚まし、その後「坐忘」。それから「出神」。日本にいるときのように明確ではないが、うっすらと「分身」が立ち上っていって体外にでるのが感じ取られ、そこでしばし「温養」、それとともにこの「分身」を対象にして「大周天」を三回行う。そののち、少し場所を移してそこで再び「温養」。それがすむと天頂に戻し「温養」し意識を集中して、周辺の「光」をこの「神」に集める。それから「収神」へ入るが、あくまでも自然な動きを待ち、無理をしないことが第一。「入る」という意識が働けば、それが「動意」となって、「分身」は徐々に入り始める。「下丹田」「中丹田」と入っていき、最後に「上丹田」に収まる。「上丹田」へ収める時は細心の注意が必要で、場合によれば何度か試みる。これが完全に入っていないと、後で頭の具合がヘンな感じ、つまり調整がうまくいっていない感じになる。こうしてこの国の大気にも慣れてきた感じがする。
  7時にレストランへ行くと、例の新婚のK夫妻と隣同士のテーブルになったので少し話をする。イタリアは食べ物は何でもおいしいということ、ベニスでゴンドラを個人で乗ろうとしたら100ユーロと言われたので、交渉し70ユーロに負けさせたことなどの話。この新婚夫婦はきっとこれからもうまくいくだろう。奥さんは賢明だが、それを表に出さず控えめ。ご主人はさっぱりとした感じで、自分を主張するわけではないエンジニア風。おそらくこの夫婦は今後何事もなく無事サラリーマン生活を終え、安穏な定年後の生活を今みたいに楽しんでいるだろう、そんな気がした。
  8時半にJALバスが迎えに来てフィレンツェ中央駅周辺で例の定年後夫婦と中年女性のペアを乗せて、市街を離れる。JALバスは市街を出て高速道路に入るが、窓外には「トスカーナ」の田園風景が展開される。「トスカーナ」は最近ではイギリスの皇太子や首相などが、わざわざ「田舎暮らし」にやって来る一種の田舎ぐらしリゾート地となっている。おいしいワインがいくつもあり、料理もトスカーナ料理として知られるようになってきたし、何もしないで田園生活を楽しみ、余暇にはウサギなど狩りをする田園リゾート。少し高地になっており、この日も車窓から見渡す限りの田園風景を楽しんでいると、みるみる一面に霧がかかってきた。その中を猟銃を担いだ人が3-4人歩いている。延々と続くトスカーナの田園風景のなかを行くこと3時間で、バスはアッシジに到着。山の中腹から頂上にかけて発展した街・アッシジ。
  この付近には、山の頂上に石造りの街が作られていることが多いが、これはヨーロッパのナゾの先住民が遺した街を発展させたもの。ゲルマン民族以前に住んでいた文字を持たない先住民は外敵の来襲を避けるため、山頂付近に大きな街を作った。その後に来た現・イタリア民族も、その遺跡を利用し街づくりを行ったという。アッシジはそんな街だが、現在は9世紀に活躍した聖フランチェスコの修道院を中心として宗教都市のような観がる。聖フランチェスコはアッシジの裕福な商人の長男で勉学もスポーツも出来、将来は「騎士」になると嘱望されていた。実際に二度ほど「騎士」として遠征し戦ったが、若い時から感じやすく戦闘の現実に心を痛めていた。
 そして20歳前にアッシジの教会を修復せよという「霊夢」を見、着ているものも脱ぎ、総てをなげうって「俗」を捨てることを決意、父からは離縁される。フランチェスコはそれでも托鉢して教会の修復の為の資金をつくり寄金。同時に彼を慕ってやってくる若者たちと修道の為の組織を作る。彼の行くところ、いろいろの「奇跡」や「伝説」が生まれ、ローマ法王も「フランチェスコ教会」という別派を認めるようになった。有名な逸話がいろいろ残されているが、この聖人は「鳥語」(鳥の話す言葉)が聞き分けられたという。
  それだけ自然と一体となっていたということだろう。後年は修道院や教会を離れ、一人山の洞窟などで瞑想に耽る生活を送り、惜しまれながら没した。ローマ法王から「列聖」され、その意思は聖フランチェスコ教会に引き継がれていった。聖フランチェスコは上の教会と下の教会という二つの教会があるが、この日上の教会では厳粛なミサが行われており、入場できなかった。明日4日が聖フランチェスコの命日で各地からやってきた信者や明日のイベントの準備などでごった返していた。下の教会でもミサが行われていたが、有名な聖フランチェスコの生涯を描いたジョットのフレスコ画など見ることができた。信者達に混じって、しばしお祈りもできた。繊細で「聖」を求め続けてその生涯。いろいろな逸話があるが、なにか最も人間的なものを感じるのはなぜだろう。後年すべてを捨て再び山窟の生活に戻ったのはなぜだろう。ミステリアスでり、人間的な繊細さに満ちた生涯を思わずにはいられない。
  アッシジからまたJALバスに乗ってローマへ。予定よりも早く車が進み、5時前にはローマに着き、ホテル「ヴィクトリア」にチェックイン。ここは、高級ホテルが立ち並ぶべネト通りを1本入ったところで、ボルゲーゼ公園は目の前。スペイン階段へも歩いていける距離にある。中型の4つ星ホテルだが、内部も整備されロビーもきれい。小憩の後、シャワーを浴び、暗くなったローマの街に出た。
  ひとつは、明日早朝にローマ中央駅「テルミナ」から新幹線「ES」でナポリに行かなければならず、ホテルから「テルミナ」までの地下鉄の行き方を確認していく必要があったため。夜のローマの広壮な高級ホテルが立ち並ぶべネト通りを下り、骸骨寺の前を下り、共和国広場に達する。この間ホテルから歩約10分。ここから地下鉄が出ており、前もって切符を買っておく。その後また来た道を戻り、ホテル近くのバールで食料とビールを買い込んでホテルに戻った。
by yuugean | 2004-10-03 18:22 | 2004

フィレンツェ

d0098440_19421154.jpg 5時起床。今日もフィレンツェ自由行動。今回の「JALプチ・個人旅行」は訪問都市とホテルのみが決まっていて、あとは一切自由行動で都市間はJALバスを乗り継いでいく方式。これにしたのは、基本的に「個人旅行」で行きたいが、都市間の移動はバスによるもののほうが便利である点。実際、完全個人旅行で鉄道や航空機を使った場合にホテルに行くまで荷物を引きタクシーや列車を乗り換えるのはいかにも面倒だという点からだ。しかし今回の旅程で少し気になるのは、ミラノ・ローマが2泊、ベニスが1泊でフィレンツェは3泊という点。
  長いイタリア縦断バス旅行の中盤で、「疲れ」を取るという意味もあると思う。当方としてはベニス2泊、ローマ3泊と行きたいところ。なぜなら2泊と行っても実際は2泊目の朝は、もう出発の日に当たっており、観光行為は一切出来ないからだ。私は最終日のローマを延泊してローマ3泊にしたが、それでも1日はナポリーポンペイで潰れるので、実質ローマですごせるのは1日のみ。ただなんとなくわかってきたのは、フィレンツェが3泊になっているのは、ルネッサンス中心都市という意味もあるが、ベニス・ローマの高いホテル代に比べ、比較的にここは安いからではないかということ。それはともあれ、実質2日目の朝も、まず入浴で身体を覚ます。その後「坐忘」-「出神」-「収神」を修練。
  やはりだんだんとイタリアの大気に慣れてきている。今朝はゆっくり8時前にレストランで朝の食事をし、ホテルを出る。今日は昨日のフィレンツェ中心部とは違って、アルノ川の対岸地区を散策し、フィレンツェ市街を見下ろす丘にあるミケランジェロ公園まで上って見ることにした。ホテルからすぐのアルノ川沿いの道に出ると、昨日同様にパトカーが2台ほど止っている。見渡すと、近くのビルにアメリカの星条旗がかかっていて、米国領事館となっており、それを護衛している警官達。川沿いをジョギングする人が何人かいる。
  このあたりは高級ホテルや事務所が立ち並ぶ一角で、川沿いに沿って歩き二つ目のカフアイ橋を渡る。昨日訪ねたベッキオ橋が下流に見える。川幅の広いアルノ川の中洲にはカモ、アヒル、ハクチョウなどが戯れている。岸辺で釣りを楽しむ一団もある。川を超え対岸の道を下流に向かって歩き、古ぼけた教会があったので、その裏から入っていくと、また狭い通路が走っている。その道を歩いていくと、突然右手に広場が見え、その向こうにかなり立派な教会が見えた。教会の前に立ち、案内書を開くとそこは「サンタ・デル・カルミネ教会」だった。
  この教会の礼拝堂に描かれたマザッチオのフレスコ画はルネッサンス絵画の母体といわれ、若い頃修行中のダビンチやミケランジェロが模写に通った。ドアが開いていたので、そのまま中に入ると、朝の礼拝が済んだあとで、教会の人が祭壇の後片付けをしており、広い教会の内陣では勤めに出る近所の信者が所々でお祈りしている。私達も見習ってローソクを買い火をつけて蜀台に掲げ、お祈りした。ミケランジェロがここのフレスコ画の複写に通っていた当時、デッサンに一家言をもっていた彼は、先輩の誰かのデッサンを批判し、起こった先輩がミケランジェロの鼻を殴ったので、彼の鼻は生涯ペシャンコになったという話が残っている。
  ミケランジェロの才能は幼い頃から明らかで、それを見たメディチ家当主が彼を自宅に住まわせ、自分の子供達と一緒に生活させた。一緒に遊んだメディチ家の子供達は成長して、枢機卿となったり、法王となり、ミケランジェロがローマに出てヴァチカン宮殿を設計したり、システィナ礼拝堂に多くの壁画を描いたりする契機となった。この「カルミネ教会」のフレスコ画は若い頃のミケランジェロの感受性に大きな影響を与えたわけで、「ルネッサンス」美術の母体といわれるのも頷ける。教会から出て、先ほどの道を歩いていくと、珍しく「コインランドリー」が目に付いた。そうだ、後ほど、ここで旅行で溜まった洗濯物を洗おうと決めた。ホテルではなかなか乾かないので困っていたところだった。
  さらに歩いていくと、ビッティ宮殿に出た。ここは壮大な建物と大きな西洋式公園ボーボリ庭園で知られ、要塞もあるが、何か美術展らしきものをやっていたのでパス。ビッティ宮殿の横を曲がりしばらく行くとミケランジェロ公園への上り口に出る。くねくね曲がった山道を登ると10分ほどで公園となる。真ん中にミケランジェロの「ダビテ像」(複製)があり、フィレンツェ市街が一望の下に見下ろせる。アルノ川の流れ、ドウモの特徴的な円屋根、「ベッキオ橋」。しばらく中世のままのフィレンツェ市街を眺め小憩。公園の駐輪場でバイクの取締りをやっており、違法駐車はどんどんレッカー車で持っていくのを見ていた。帰りは頂上からのバスで市街へ。
  バスはものすごいスピードで走るので、立っているのがやっとだったが、それを見た家族連れらしい、若い女の子が席を替わってくれた。バスが市街に入ったので降りたが、どうも降りる場所を間違えたみたいで、見当をつけて歩いていると、巨大な「要塞」に出た。
  どうも目指すホテルとは離れた地区に迷い込んでしまったみたいだったが、途中で親切な中年紳士が「駅はあっち」と教えてくれたので、中央駅を目指すことにした。駅裏のごちゃごちゃした狭い通りには、一見して連れ込み宿とわかる小さなホテルが連綿と繋がっている。その一角を抜けると中央駅の広場に出た。昨日見た「マクドナルド」で遅い昼食。メニューを見ると、「美味い」とか「幽玄」とか日本文字が装飾につかってあり、「カミカゼ」というパッフェ風の食べ物が人気メニューとなっている。「マクドナルド」は都市によっては、名前を変えたり、ロゴマークを消して、テーマカラーを止めたりしないと、イタリア人にはそのままではなかなか受け入れてもらえないらしい。
  イタリアは食べ物に関しては今でも頑固に「スローフード」を守っており、「マック」のようなファーストフードの食べ物はまだ一般的には認知されていない。イタリア人は「米国」が嫌いという事情もある。それで、「米国色」を出来るだけ消す作戦でやっているようだが、漢字の装飾やメニュー名で「日本色」を出そうとするのもその一環と思われる。イタリア人は日本には親密なムードを持っており、日本料理のすばらしいさにも敬意を払っているから。
  「マック」を出て駅前周辺をぶらつき、広い市場にいったりしたが、歩きつかれたので、駅前から徒歩でホテルに帰る。小憩の後、早速洗濯物をまとめ、午前中に見つけた「コインランドリー」に向かう。これは日本と同じ方式だが、コインの代わりに「メダル」を買い、それを洗濯機に入れると動く仕組みになっている。はじめやり方がわからないでいると、若い女性が親切にやり方を教えてくれた。どこかの国から古美術の研究か建築の研究に来ている女子留学生という感じのこだった。洗濯が終わるまで近所を散歩。洗濯が終わって今度は乾燥機に入れ、近くの「カルミネ教会」の石段に腰掛けて仕上げるのを待った。私はそこで瞑目し、しばし「坐忘」-「出神」-「収神」を修練。気のせいか清浄な気に満ちているのか、なんとなく修練は最後まで出来た。「洗濯・乾燥」を終わり再びホテルへ。
  その夜は、JALアシスタントに教わったイタリア料理の店に行く。オペラの歌手や俳優が来たりする店で、おいしいという案内だったが、早い時間から富裕な中年の男女の組などで混んでいた。常連の多い店らしく土曜日の夜を、友人夫婦同士で、レストランでワインを飲み料理を味わって過ごすファミリーな雰囲気。落ち着いた、にこやかな会話が流れている。主人と息子で仕切っているらしく、落ち着いてにこやかな主人がメニューを持ってきて、よく似た雰囲気の息子がビールを運んできた。パスタと魚料理をアラカルトで頼んだが結構おいしかった。ここはイタリアの「レストラン」(日本でいう料亭)に告ぐ段階の「トラッタリア」(専門料理店)で流石に洗礼された味。終わって酔い覚ましに少し夜の街を歩いてから、ホテルに帰った。
by yuugean | 2004-10-02 18:06 | 2004

憧れのダビテ像

d0098440_1940068.jpg 5時起床。昨夜はフィレンツェ第一夜。到着が夜だったので、あまり出歩く事もなく近くのバールで買ってきた簡単な食事で過ごした。長いイタリア縦断バス旅行の中盤で、少し疲れたということもあるし、次の日の朝早くに「ウツッフィイ美術館」の予約が取れていたという事もある。今回の旅行はまず「美術館めぐり」、それから「カソリックの旧跡めぐり」。これがS君と私の合意点。なかでもミラノの「最後の晩餐」、フィレンツェの「ウツッフィイ美術館」、ローマの「ボルゲーゼ美術館」は事前予約をしないと入場できないので、数ヶ月前からイタリア在住の方にお願いして「予約」を取ってもらっていた。
  そしてこの朝、いつもの通りまず入浴で身体を覚まし小憩、「坐忘」-「出神」-「収神」修練。まだ暗い窓を開け放つと、空には三日月がきれいな形で出ていた。「坐忘」-「出神」-「収神」はだんだんイタリアの大気にも慣れてきたと思う。とにかく、わが「法身」にとっては初めての海外旅行で、生身のわが身が若い頃からあちこち出歩いたのとは少し勝手が違うのだろう。
  しかし、それも日本におけるような状況どおりとは行かないが、だんだんと慣れてきた。今朝もやはり7時にレストランが開くのを待って食事をし、デジカメと案内書をもってホテルを出た。ホテルからすぐのアルノ川沿いの道を「ウツッフィイ美術館」まで20分ぐらいの道をゆっくり歩く事にした。フィレンツェはいうまでもなく、ルネッサンス芸術が花開いた街。現在もそれをそのまま保存している街で、「ルネッサンス」がそのまま詰まっている。
  「ルネッサンス」芸術が勃興したのはメディチ家の庇護によって初めて可能となったものだが、「ウツッフィイ美術館」はメディチ家の本拠オフィスのあったところで、今で言えば本社所在地であった宮殿を美術館にしたもの。メディチ家ゆかりのコレクションがそのまま残されている世界有数の美術館。イタリア美術の歴史を目の辺りにするようで、1-45室におよぶ展示室には数多くの宗教画をはじめ、彫刻、それにダビンチ若き日の「キリストの洗礼」「受胎告知」、ミケランジェロ「聖家族」、ラファエロ「自画像」「ヒワの聖母」などの名品が展示されている。
  なかでも目を引く圧巻はボッティチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」。エルグレコやティントレット、カラバッジョなどの本物に接する事ができる。「ウツッフィイ美術館」で過ごしたのは三時間近く、進路にしたがって歩くと裏側に出た。少し目も疲れたので近くのバールでコーヒー。テラスの椅子に腰掛けていると、いろいろの国の団体が通っていく。中国らしいアジア人の若者の団体、南米から来たらしい老男女の団体、アフリカ人は数人で家族かもしれない。そういう団体がひっきりなしに通っていく。
  イタリアはいまいいシーズンだという事もあるが、世界中からここを訪れる人々を惹きつけるのは、やはりルネッサンスの街並みがそのまま残っているたたずまいだろう。少し休んだ後に、近くの「ベッキオ橋」に向かう。アルノ川にかかる14世紀に作られた古い橋。石畳の橋の上に古い三階建ての建物が並び宝飾店が軒を連ねている、独特の構図。S君にとって今回の旅行の目的のひとつはここで、何故か以前から夢の中にこの橋が出てきて、一度来てみたかったという。あるいは何かの縁があるのかもしれない。現実には古く今にも壊れそうな風情で、お店もなぜか高級そうな「宝飾店」ばかりが並んでいた。
  それほど長くもない橋を渡り、再びこちらに戻って来る。この橋も観光客でごった返しており、馬に乗った警官が時々見張りに来る。そのご再び「ウツッフィイ美術館」の前を通り、フィレンツェの中心部に向かって歩く。途中で感じのいいピッツア店があったので、何かピッツアを頼み、ビールを買い、主人が自ずから奥まで案内してくれた。味はまあまあ。食後ブチックの立ち並ぶ街の中を、人の流れに沿って歩いていくと、自然と「ドウモ」に行き着く。
  広場はミラノほど広くなく、ドウモもミラノほど大きくはないが、きれいに施された装飾は目を見張るものがある。各国から来た観光客でごった返している中を掻き分け長い列に並びドウモの内陣にはいる。中は暗く、高い天井が見上げる限り続いている。祭壇に向かって礼拝し、ローソクを横の蜀台にささげる。ドウモーメディチ礼拝堂ーリッカルディ宮殿と歩き、次に向かったのは「アカデミア美術館」。
  目ざすはミケランジェロの巨大彫像「ダビテ」。入り口から続く回廊にはミケランジェロが残した彫刻が何体か、半ば大理石に彫られて未完のまま展示されている。「ダビテ像」は私がずっと会いたかった彫刻。フィレンツェはある意味、ミケランジェロの街といってもよく、ことにローマに行く前の若いミケランジェロが修行し育った街。なかでも「ダビテ像」はその象徴で、ミケランジェロ・隠れフリークのひとりとして、この像は欠かせない。正面から少し離れて見るのがよく、その立ち位置でしばらく眺めていた。
  ここを出ると、もう午後三時を過ぎていたが、ブティック街などを散策し、ショッピングなど。そのあと、小さな商店のひしめく通りを通って、フィレンツェ中央駅に出た。ここで「?」と書いた案内書で、日本からインターネットで予約した「イタリア国鉄」の「ES」(新幹線)の切符の事で問い合わせたが、応対に出た女性の係員は、英語で書かれた「国鉄」からのメールを読みもしないで何やら言っていた。どうやら、このシステムについてはよく知らないようだった。
  新幹線に関しては、イタリア国鉄のホームページから予約でき、私は「ローマーナポリ」往復を予約し、カード決済しメールで「確定した」との返事があった。どこで切符に代えるのか(というのはイタリアの鉄道では改札で刻時をしないと無効になるので)聞きたかったのだが要領を得ない。JALバスのアシスタントもこの新システムについて知らなかったし、フィレンツェ中央駅の係も知らない。「メール」には、車内で車掌に言って「切符」とかえると書いてあったので、事前確認はあきらめて当日車内での交換に賭けることにした。おそらく英語が読めないので「メール」に目も通さなかっただろうが、その対応に少し頭にきたので駅前の「マック」で小憩。その後駅傍の「スーパー」で食料と飲み物を買い込んで歩いて10分ほどのホテルに帰った。
by yuugean | 2004-10-01 18:07 | 2004



遊びをせんとて生まれける  学びせんとて生まれける
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