遊化の森

<   2005年 09月 ( 7 )   > この月の画像一覧

タオに続く道



「時事片々」===============================================

昨夜は「中秋の名月」でした。子供のころは、決まってこの日ススキや萩
の花をかざり、手作りの月見だんごを高く積んで、夕方になるのを待った
ものでした。そういう風習もいつしかなくなったのか、マンションでは何
雰囲気がちがうような気がしますが、それでもスーパーへ行けば、ススキ
や秋の花、月見団子セットやおはぎを売っていますから、まだその風習は
継承されていて、現在なりのやり方で「月見」を楽しんでいるのでしょう
      名月や  池をめぐりて 夜もすがら
これはいわずと知れた芭蕉の名句ですが、煌々と照る中秋の名月の下を、
池の周りをそぞろ歩きして夜のふけるのも忘れ、、。そんな光景が浮かんで
きますが、その時この人は頭の中で何を考えていたのでしょうか?と思っ
て仕舞います。勿論世俗のよもやま事ではなく、月、草、花あるいは日本
の自然について思いを巡らせていたに違いないのです。そんな思いを巡ら
せながら池を巡るのには「名月」はなんとぴったりはまっていることか。
と思います。ほかに何も説明がいらない。そこが名句の名句たるゆえんで
すね。
            # # # #
「中秋」といえば、日本では「名月」ですが、中国世界では「月餅」です。
この「月餅」の箱詰めを進物として知人友人に送るのがこの日の慣わしで
それをもらった人は「幸せ」になるという言い伝えです。香港あたりでも
この風習は非常に盛んで、「中秋」の季節になると盛んに贈りあう。この
間横浜の「中華街」に行きましたが、「中秋月餅」の幟があちこちのお店に
立っていて、大きなディスプレイ用「月餅」も展示されていました。お店
にとっては稼ぎ時というわけでしょうか。「月餅」といえば、この間新聞に
上海で「月餅」の便乗値上げが横行していて、市当局が厳しい警告を発し
ているという記事が載っていました。今上海はバブル景気ですから、そう
いう便乗が増えているようですが、「幸せ」を送るはずの「月餅」にまで
便乗値上げとは?という気分ですね。そういえば、最近「三峡ダムは失敗」
という論調があるようで国を挙げてのダム建設工事によって、かえって沿
岸の工場の重金属類垂れ流し被害が増えて、奇形児がうまれるなど「水俣
病」的な現象が増えているということです。これなど社会基盤の整備がな
いまま経済優先、増産優先できた罪悪が出てきていうように思います。まだ
インフラが整備されないままに重金属垂れ流しや便乗値上げが横行すれば、
社会も人心も一方では未成熟のままに乱れ始めるような気がします。20
10年ごろには中国は日本のGNPを追い抜いているといわれますが、基盤
未整備のままに行け行けどんどんの方向をとれば、結局その害は国民の側に
牙をむいてくる。これはかって日本が歩いた道ですが、、

「仙道随々」==============================================

前回「仙道養生法」は「生きながら生きること」と書きましたが、何とな
くわかりそうでわかりにくい内容です。しかしそこに「仙道内丹法」が単
なる「長生不矩」や「健康法」ではない点があると思います。あくまでも
現世にこだわって、この現世をいかに生きるか、という一方法を提唱して
いるのです。人生が30年ぐらいであった、戦乱に明け暮れた時代に、60
年80年と生きることは「長生」にあたったことでしょう。そんな時代に
次々に「権力者」が変転して「価値観」もめまぐるしく変わる時代に、「変
わらぬもの」を自己の基盤にすえて「生きながら生きる」方法を提唱した
のです。それはある意味現代も同じで、生活のペースが速まり、次から次
へと押しかけてくる「情報」の氾濫やめまぐるしい「変化」に「自己」の
存在はますますあやふやな状況になっています。それだからこそ「仙道内
丹法」の必要性が逆にあるのだといえます。
          #  #   #  #
「仙道」の目標は、しかし単に「生きながら生きる」ということだけでは
ありません。それすらひとつの「方便」に過ぎません。仙道の目標はもち
ろん「タオ」と一体となること、タオと一体となって生きることにありま
す。「タオ」というのは目に見えず、説明のしにくい概念ですが、人間をは
じめとする、あらゆる生物を動かしている自然の運行システムとでもいい
ましょうか。それを感知し悟得して、そのシステムとともに日々生きると
いうこと。そういう身体と精神を創り上げることが「仙道内丹法」のメソ
ッドであり、タオと一体となって生きることで「真人」に到達できると教
えます。
          #  #  #  #
ところが、日本ではかなり多くの人が「超能力」獲得の近道として「仙道」
を知り修練に入る人が絶えないのが現状です。それは明らかに「高藤」氏
の影響で、高藤氏が著作の中で何度もその点にふれています。中国には古
来「仙人」がいたこと、種々の不思議を行ったこと、さらに秘伝として「仙
道内丹法」があること、現在も硬気功のような超能力お発揮する人たちが
中国にはいること。これらの事象を一つの書物のなかに列記して、あたか
もそれらが一つの同じ流れであるかのように書かれています。しかし事実
は、これらの事象がそれぞれ事実だとしても、「内丹法」とはそれぞれ、あ
まり関係がないことです。古代の仙人たちの不思議現象は、あきらかに「内
丹法」が生まれる時代の前の事象で、彼らの多くは「松の実だけを毎日食
べていた」とか「山中で仙人に会い秘法を授けられた」というもので「内
丹法」によるものとは思われないのです。硬気功も、それは実練習の結果
で「内丹法」とはあまり関係がない。最近の超能力者?の一人とみられる
王力平氏(終身刑で獄中)も書物を見る限り、二人の道士に導かれて「つ
ぼ」の中で修業するなど苦しい修練をつづけた結果超能力を得たのであっ
て「内丹法」によるものではないでしょう。日本や中国で現実に行われて
いる実際の「仙道内丹法」を「超能力獲得法」と同一視することにはやは
り無理があるといわざるをえません。これは思うに高藤氏自体がもともと
「超能力」獲得志向者で、その方法として「仙道内丹法」を選び、修行し
て書物にも書いてみたが、それほど効験明らかでないので「チベット密教」
やその他の神秘行にも行き、修行をしたということではなかったでしょう
か?結果として書物だけが残り、その後の「超能力」獲得志向者の手本に
なっているという気がします。その結果どれほど多くの人「超能力獲得術」
として「仙道内丹法」を修練し多くは4-5年で離れていったか。もう2
0年近くやっているとそういう事実に何度も出くわしてきました。「内丹
法」を短絡的に「超能力獲得術」と考えるには、もともと無理があるの
です。
それでは「仙道内丹法」は無力なのでしょうか?決してそうではなく「超
能力獲得術」という視点を捨て去ったところに永遠に続く「タオ」と合体
する道が開けてくるのです。
by yuugean | 2005-09-25 16:35 | 2005

中秋の名月

  夏の終わりに激しい嵐が何本かやってきて、そのあとは静かな耀きに満ちた天候が続いている。今日の空は見渡す限り雲ひとつない、秋を予感させる空。気温はまだ30度近く上り詰めるが、朝夕には冷え込みさえ感じられる。5時に起床、コーヒー沸かし。いつもの儀式。そののち「坐忘」に時を過ごす。まったく「坐忘」でただ「無為自然」のままに座して、おそらく「天」あるいは「自然」が力の抜けた身中で行っていることをぼんやりと眺めている。それはある意味気持ちが良く、何時間でも続いてくれることを願う気持ちになる。
  別にそういう状態ばかりでなく、合間にテレビを少し見たり、そこから再び「坐忘」に戻ったり、別に何者にもとらわれず、決まりも強制もない世界に遊泳している。それがすむと「出神」にはいるが、「出神」「収神」の方法を変えて、そのまま続けている。すでに動くものは何もないが、あくまで「泥丸」は陽神の「本宮」であり、「泥丸」全体ーすなわち前頭葉、後頭葉から「脳幹」にいたるまでの「包括的な温養」を欠かせることは出来ない。その後無為自然の中で「五気朝元」が自然に始まる。
  体内内臓の「五気」、つまり心臓、肝臓、脾臓、肺臓、腎臓の「五つの内臓の気」がそれぞれのルートを通じて天頂から「太空」に立ち上っていく。まず心臓、肝臓、脾臓、肺臓に意識をおき、それらの「気」が気管を通じ「天頂」に上ることを意識する。一方でそれらの四内蔵より下部に位置する腎臓に意識をおき、その「気」が下って「生死か」から「督脈」を上って「天頂」にあつまり、先の「四気」と合一する。その「五気」は天頂より「太空」にのぼり帰っていく。それが「五気朝元」。それが済むとこんどは体内の隅々から「精と気」が「天頂」に立ち上って集結する。「神」はもともと「泥丸」にあり、「精・気・神」が天頂で合一するのが「三華聚頂」。
  この三つが集まった段階で無為自然に為し、さらに意識を後頭部、脳幹に心持ちずらすと、やがて「金光」が見えてくる感じになる。「金色」に見える「光」の中に「聖胎」らしき存在。次に意識を上げていって天上におけば、自然に「天花乱墜」が起こってきて自然に「頂門」が開き、「陽神」が立ち上っていき、天頂の外にある「光の車輪」の中に入って「内座」する。これらは一連の連続技で次から次へと繋がって現象が現れてくる。その中で「出神」、そして「収神」。
  今日は「太極拳」の日で、9時にいつもの通りの喫茶店で待ち合わせ。その後昌平小学校で修練。今日は八段錦、伸展法、24式太極拳、陳式太極拳、老架式太極拳をひととり全部やる。来週は「演武会」なのでおさらえする。終わっていまや「萌え」族のメッカと化した秋葉原を突っ切り、最近出来たヨドバシカメラの大型店を覗くが、人が多く入るのはやめて入口のすし屋で食事して帰る。夜は例の通り小宴。終わって外に出ると「中秋」の名月がひときわ明るく中天にあった。
by yuugean | 2005-09-18 19:49 | 2005

一寸先は闇

○時事片々===============================================

「選挙」も終わりました。おそらく小泉さんご本人も予測できなった
結果ではないでしょうか?「オセロ」のように一手で黒が白に変わっ
てしまうような所が「小選挙区」にはあるのでしょう。それにしても
判らないのは選挙戦に入る前に、岡田代表が「今回政権取れなったら、
私は辞めます」という発言。あの時点では、自民党ピンチ、民主党有
利が誰の目にも明らかだったわけで、その自信のほども判らないでは
ありませんが、まだ戦いの火ぶたも切っていない時に、結果を見通し
たように、何であの「発言」をされたのか、少し不思議ですね。
勝敗を決めるのは選挙民、それを忘れた驕りでなかたかどうか。「政
治の世界の一寸先は闇」と昔老練の政治家は言いましたが、戦いも始
まっていないのに「辞める、辞めない」というのは、いくらなんでも
早急な話。この言葉が結局国民の心を覚ましてしまい、一番の敗因で
はなかったかと思うのですがそういう論調があまりないのはどうして
でしょう?

           # # # #

「予測」の狂うことは日常ついて回るものですが、私も前回の「メル
マガ」でひょっとしたら、9日までは「大手町爆破テロ」の危険あり
などと書いてみごと外れました。この種「外れ」は国民にとってうれ
しいことで、よかったのですが、あるいは迷惑のかかった関係者がお
られるかも知れず、お詫びします。

私自身毎日通勤ラッシュの中、丸の内線で大手町近辺に通っているも
のですから、その「危険性」を感じ、あるときなどわざわざJRに乗
り換えて東京駅に行ったり、手前で下車したりしました。なぜか「予
感」がしたために書いたのですが、事実8日の日に各省合同のある会
議があって、霞が関にいったのですが、なんと各改札口に「警視庁」
と書いた防弾チョッキをきた機動隊員がひとりずつはりついていまし
た。何かそういう「気配」があるか、情報があったかと思いますが、
詳しくはわかりません。これからも「予感」を恐れず公表していきた
いと思います。あるいは迷惑でしょうが、、。

○仙道随々================================================

前回の「メルマガ」で「仙道の基本は養生法」と書いたら、少なから
ず反論らしきものがありました。しかし「養生」という言葉、日本人
が普通使う「養生」とは少し違うような気がします。単に「健康法」
ではなく、むしろ「自分の中の自然のままに正直に生きる」ぐらいの
意味ではなかろうかと思いますが、ほんとうはもっと深い意味合いが
あるのでしょう。

それは「言うは易く、行なうは難しい」道。それだからこそ、何階梯
かを何年もかけて「心や意識」と「命や肉体」とをともに変革してい
く「性命双修」の道を人は進むのです。人が生れ落ち、幼児期を過ぎ
て、成人し社会人となり家族をなして、この現代社会を生きていく。
周辺にはその過程のあらゆる時期を通じて、あらゆる価値観、あらゆる
情報があり、いつのまにか「本来の姿」が見えなくなってしまっている。
学生であれば勉強や遊びの中で自分の将来を思い、社会に出て身を立て、
社会の中の競争と混乱の中で生き抜きながら、家族を養い子供を養い、。

        #  #   #  #

人間の生活は、いつの時代も男も女も情景は変わっても、ほぼ同じ様子
でこうして進んでいくものでしょう。そのなかで、鋭敏な感受性は楽し
んだり、傷ついたり、会社や家庭のベルトコンベアにともすれば抵抗
を覚えながらも日夜ただ汲々と生活を続けていく。世の中のことは「
思い」の三分の一もいかないのが多くの人の現実でしょう。しかし、
あるとき果たして今の姿が「自分」の人生なのだろうかと思い悩むこ
とがいつかはあるのもまたありふれた現象です。
「無」から「有」が生まれ、その「有」の姿もまた「無」の世界へ帰
る。あらゆるものがそうで、ひとの「思い」も同じであり、有為転変、
つねに変転していくのが有史以来繰り返されてきたこと。その運命か
ら逃れることが出来ないのが「人生」なのに、ひとは自分の人生や家
族だけは特別で、地位も名誉も財産もそのまま永遠に続くと思いこみ
たいのが自己の姿です。
そこに「喜怒哀楽」が生まれ、「生老病死」の苦しみもそこから生ま
れてくるのです。仏教やその他の宗教が目指すのもその苦しみからの
「脱却法」にほかなりません。そういう意味ではこれも「養生法」。
「仙道」も同じですが、仙道は生まれてから身についた「後天」的な
もの全てを捨て、「胎児」であった時代に存在した「先天」的な自己、
「先天」的な人間に帰れといいます。そのための「マニュアル」が「
仙道内丹法」であり、それまでの人生を「リセット」し「生きながら
生きる」ことを提唱するのが「仙道」養生法の真髄ではなかろうかと
思います。
by yuugean | 2005-09-17 15:41 | 2005

静謐

朝夕はめっきり涼しくなった。しかし昼間は時には蒸し暑い。tシャツに短パンでもいっこうにおかしくない感じ。5時に起床、コーヒー沸かし。いつもの儀式。「坐忘」。「出神」「収神」の方法を変えて1週間ほどは、すこし違和感があったが、ここ数日で落ち着いてきた。新しい方法と、それまでのやり方とが融合して馴染んできた。そして以前感じていたよりも、さらに深く、さらに統覚的な状況となって進化したように感じている。すでに動くものは何もない。無為自然の中で「五気朝元」が自然に始まる。体内内臓の「五気」がそれぞれのルートを通じて天頂から「太空」に立ち上っていく。それが済むと体内の隅々から「精気神」が「天頂」に立ち上って集結する。これは「三華聚頂」で、ここでも無為自然に為すと、やがて「天頂」から「金光」が溢れ出ている感じになる。わずかに熱を持っているようでもある「金色」に見える「光」。そのままにするとその中に「聖胎」らしき存在がある。ずっとその状態を続けていると「天花乱墜」が起こってきて自然に「頂門」が開く。そして「泥丸」から「陽神」が立ち上っていく。「陽神」は「光の車輪」の中に入って「内座」する。そして帰りは「頂門開」ー「収神」。最近はこれらの一連の流れが全く無為自然のままに展開されるような感じになっている。私の「意識」はただそれを静かに見ているだけで何もしない。為すものは天か。以前のやり方と現在のやり方が融合し一体となることによって、無為自然のままに運行され、体内のエネルギー感も格段に深まり、静謐度は一段と深まった。あとは毎日これを続けるのみ。「面壁」に九年という成句があるが、実際は終わりがない。終わりのないままにやがて無為自然の中で「還虚合道」へと入っていくような気がする。
by yuugean | 2005-09-10 16:42 | 2005

チョッキを着た男たち

#時々断片#

 いつの間にか夏も終わり。それでもまだ「残暑」が続きますが、ご無沙汰しております。いかがお暮らしでしょうか。もうこの「メルマガ」も1年間のご無沙汰でした。何か、書くべきこともなく、そういう意欲も希薄になっていたこのごろでした。ただ思いだしたように、あるいは迷惑かもしれないメルマガをお送りするのは、あまり休止中だと「廃刊」にされてしまいかねない思いからです。それかあらぬか、この「メルマ」も新装開店。私も新装のつもりで頑張って見たいと思いますので宜しく。
 さて、世の中は選挙一色。何やら殺伐とした感さえあるのは、やはりいまが「信長」の生きていた時代のようなんでしょうか。自分を「信長」と思うのは勝手ですが、そういう「思い込み」の強さで政治をやられると、今の時代国民は困らないでしょうか。日本のような成熟した社会に求められるのは、シンプルな「思い込み」ではなく、調整力だと思いますが、そういうものの全くないのがあの方ですね。まあ偉そうにいうのはやめましょう。いずれにせよ9月11日には大勢が決するのですが、「あの方」は何故か運命のようなものに引っ張り込まれていっているような予感も感じます。9月11日という忌まわしい日が投票日になってしまったということもそうですが、選挙前5日から9日くらいまでの朝の通勤時間・地下鉄各線が集まる「大手町」近辺は要注意かも知れません。ニューヨークーマドリッドーロンドンーそして、、、。二度あることは三度あるといいますが、ひょうっとしたらというのは単なる予感。あたるも八卦、あたらぬも八卦、ただそんなことが起これば、事前の「自民大勝」ムードは吹っ飛んでしまうことだけは確かですね。勿論日本の優秀な当局はあらゆるケースを考えて手を打ってますから、未然に防げるでしょう。そういえば地下鉄に最近やたら「警視庁」と書いたチョッキを着た若い俊敏そうな警官がやたら立っているような気もします。

#仙道雑感#

 「仙道」といい「内丹法」といいながら、もう長くやってきたわけですが、もちろん私が志しているのは「伍柳派」です。「仙道」と称するものには700-800の流派があるといいますが、そのなかで「口訣」ではなく「著わす」こと、「明らかにする」ことを主旨として連綿と続いてきたのが「伍柳派」です。「口訣」ということにもまた多くの意味があったと思われます。多くはさまざまな流派の「道院」に中で、その奥深くに仕舞われていたこと。流派によってかなり差異があること。それと同時に「仙道」は誰にも満遍なく、継承できる類のものではないこと。そんな事情から「一子相伝」的に「口訣」によって伝えられてきたのでしょう。逆に門外漢に伝えることは厳しく戒められていた。ところが清時代になって、伍仲虚ー柳華陽の流れは、それを絵に描き、文章に記して残したのです。それによって今日われわれが「仙道内丹法」についてかなり正確に知ることが出来るようになったのです。他の流派が「道院」「道観」の中で育成されてきたのに対し、これはいわば「在家」ですね。柳華陽は有名な「督脈・任脈図」を描いて「小周天」の実際を知らしめたにですが、今日誰でも知っている「督脈・任脈」のありかさえ当時は秘密に属していて柳華陽も「秘密をもらして罰を受けるかもしれない」と述懐しているぐらいです。柳華陽のあとも、「伍柳派」は「伍柳仙宗」と言われるように、ひとつの宗派的に連綿と受け継がれてきました。清末から革命時代にかけては「千寿老人」趙避塵が出て多くの弟子が生まれましたし、その後も千寿老人の弟子・席春生のような方が頑張って現代に受けつがれてきました。ですから「伍柳派」仙道は現在もまだ生き続けている「仙学」です。日本では「仙道」といえば、まず「超能力」というのが出てきますが、実際そうした本も多数著わされ、現在も多くの若者を惹きつけていることは事実ですが、千寿老人ー席春生らに受け継がれている「伍柳仙宗」はまず「養生法」です。「養生」というのも日本と少しニュアンスが違うような気もしますが、つまり「意識」(神・性)と「肉体」(命)の双方を同時に鍛錬することによって「良く生き、自然に生きる」生き方の修練にほかなりません。だからこそじっくりと真剣に取り組む必要があるのです。「性命双修」を旨とする「伍柳仙宗」の真髄はここにあると思われます。
by yuugean | 2005-09-02 15:33 | 2005

メルマガ

  すでに9月。心なしか陽の光にも真夏の強さはない。5時に起床、再びコーヒー沸かしが始まった。その後いつもの儀式ののち「坐忘」。無為自然の状態に至るのは、いまではそれほど難しくはない。前月から「出神」「収神」のやり方を若干変えたことは前に書いた。「出神」「収神」の前後に「頂門開」の一項を入れたことが大きな変化。それによって「出神」「収神」の全体像も変わってきた。まだ完全に読みきったとは言えないが、私の感じるところ、順序としては「五気朝元」-「三華聚頂」-「金光頂在」-「天花乱墜」-「頂門開」-「出神」-「光輪内座」-「神遊観」-「光輪内座」ー「頂門開」ー「収神」ということになるかと思われる。要するにこの時期には「精」「気」「神」すべてが「泥丸」「天頂」に集結してくる。
  その最初は、体内の「五気」が天頂から出でて天に帰る現象である。「五気朝元」の「朝」は帰朝の朝で帰る意ではないかと思っている。その後の「精」「気」「神」の「聚頂」は明らかな現象だが、それによって「天頂」から「光」が発するようになり、「天花乱墜」の景が見え始めると「頂門」は開く。その中を「泥丸」の中の「陽神」はゆっくりと立ち上っていく。光の「車輪」の中での坐忘、「神遊観」-「収神」も一応手順どおりであると思っている。まだまだ細部については詳細な研究が必要だと思われるが、ひとつの道筋はついており、当分はこの手法でいくことになると思う。
 今夜久しぶりに「仙道メルマガ」を書く。約一年ぶりのことで「メルマガ」自体が新装開店し、様子がさまざまに変わってきた。これからは是非たびたび書けるように心がけたい。
by yuugean | 2005-09-01 19:51 | 2005

出神の手順

すでに9月。心なしか陽の光にも真夏の強さはない。5時に起床、再びコーヒー沸かしが始まった。その後いつもの儀式ののち「坐忘」。無為自然の状態に至るのは、いまではそれほど難しくはない。前月から「出神」「収神」のやり方を若干変えたことは前に書いた。「出神」「収神」の前後に「頂門開」の一項を入れたことが大きな変化。それによって「出神」「収神」の全体像も変わってきた。まだ完全に読みきったとは言えないが、私の感じるところ、順序としては「五気朝元」-「三華聚頂」-「金光頂在」-「天花乱墜」-「頂門開」-「出神」-「光輪内座」-「神遊観」-「光輪内座」ー「頂門開」ー「収神」ということになるかと思われる。要するにこの時期には「精」「気」「神」すべてが「泥丸」「天頂」に集結してくる。その最初は、体内の「五気」が天頂から出でて天に帰る現象である。「五気朝元」の「朝」は帰朝の朝で帰る意ではないかと思っている。その後の「精」「気」「神」の「聚頂」は明らかな現象だが、それによって「天頂」から「光」が発するようになり、「天花乱墜」の景が見え始めると「頂門」は開く。その中を「泥丸」の中の「陽神」はゆっくりと立ち上っていく。光の「車輪」の中での坐忘、「神遊観」-「収神」も一応手順どおりであると思っている。まだまだ細部については詳細な研究が必要だと思われるが、ひとつの道筋はついており、当分はこの手法でいくことになると思う。今夜久しぶりに「仙道メルマガ」を書く。約一年ぶりのことで「メルマガ」自体が新装開店し、様子がさまざまに変わってきた。これからは是非たびたび書けるように心がけたい。
by yuugean | 2005-09-01 16:43 | 2005



遊びをせんとて生まれける  学びせんとて生まれける
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧