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このところ地震の夢を二回続けてみた。もともとは夢を見ない。それが体の中の痛みがあるときに時々夢を見るようになった。ここ1-2年のことだ。いつもの夢はおおかた自身の過去の仕事や人間関係に関するもの。知った顔が出てきていろいろなことを言い動きをする。中にはすでに故人となった知り合いもいる。しかしこのところ立て続けに見た地震の夢は、誰も知らない人間ばかりで、突然の大地震にあわてている。場所はどうやら横浜沖のような気配。その時「7.8」という数字も同時に見えた。これは「7月8日」なのか、「7月。8月」なのか、ありぃはマグニチュード「7.8」なのか、それは定かでない。2度も続けて「地震」の夢を見るというのは、あるいは天が何かを知らせようとしているのか。あるいは単なる夢か。しかし気になるので記しておきたい。
私は長年にわたり「仙道」を修煉してきたが、おかげで「六通」と言われる能力が身に着くようになったと思っている。たとえば数年前「ホリエモン」全盛の時代、広島で代議士選挙に出た当時に「ホリエモンは1年後にはいない」という天の声が聞こえ、それは当時のブログにも書いた。全盛時だったので、「ウソ」という感じだったが、それからちょうど1年後に検察の強制捜査が入り、表面から消え去った。また民主党が政権をとる前夜、「民主党政権5つの予言」をブログに書いた。当時自公政権の幹事長や公明党幹部にも手紙を書いたが無視。そのなかで「1年後には小沢はいない」と書いたが、当時小沢は政権奪取の立役者で全盛期であり、それはありえない事態だった。しかし約1年後に小沢は民主党を離れ、表面から消えた。それは関係する学会の人たちにも告げた。また「3.11」の時、福島原発の映像がテレビで最初に出た時、思わずなぜか「早く電源を修復しないと大変なことになる。東芝を読んで電源を修復しろ」と叫んでいた。自然にその言葉が出てきて、そばにいた友人がそれを聞いている。当時は燃料棒をいかに冷やすかが最大事で、「電源」まで考えが及んでいなかったと思う。「電源」への配慮が出てきたのは1週間後だった。本当はこの「電源」問題の背後には、本来東北電力の領域で東京電力が発電していることの問題もあったのだが、誰も気づかなかった。 お問い合わせは taoistyi@hill.dti.ne.jp。 #
by yuugean
| 2012-03-14 14:18
| 2012
民主党政権五つの預言
民主党政権に関して某仙人(特に名を秘す・仙道の達人)が次の五つの「預言」を行っているので、お知らせします。この「某仙人」はかつてホリエモン全盛時に「一年後にはホリエモンはいない」と予言し、ちょうど一年後に逮捕となった経歴を持っている。この時はホリエモンが泥濘の中を這いずり回る映像が現れた。また古くは米国のイラク攻撃に際し、その深層と行く末を予言、その後の経過は現在に至るまで変わっていない。その他企業活動の先行き、個人の近未来に関する予言が的中している例は枚挙に暇がない。これらは活字やネット上の記録として留められている。これらの「預言」は時勢の「気」を読むことで行われるが、大衆やマスコミはことに最近は流れに追従することが常となっており、その「底流」や「深層」の矛盾を見抜くことができなくなっている。それを見抜けば当然の帰結として、「預言」のようなことが起こってくるので、自然に逆らった罪は大きい。「預言」が何%的中するかは今後の推移をみればわかるのである。 1.民主党政権発足後、四か月目に閣僚の事務所費用問題、個人資産問題、女性スキャンダルなどが種々出始める。 それは最初は小さな火であるが、これまであれほど味方をしてきた、マスコミが手のひらを返したように各紙こぞって細大漏らさず掻き立てるようになる。これにより第一弾の民衆離脱がはじまる。 2.小沢一郎は一年後にはいない。民主党政権で唯一の政治のプロは小沢一郎だが、小沢の表情にはいつも、中村喜四郎の面影がだぶってあらわれる。つまり、同様の問題が再燃してきて一年後には政界から消える。 小沢には、先のゼネコン口利き疑惑をはじめ、金にまつわる疑惑が常について回っている。自民党幹事長時代の「自民党離脱」に纏わる公金消失問題。これはその夜に急きょ空港フリーパスで台湾に渡ったことと関連しているがまだ、未解決のままである。その他新生党解散時の公金問題などもあり、民主党政権発足とともに「小沢金脈」問題の追及がはじまり、責任ある説明が求められるようになる。政権政党と野党時代とはその「責任性」に大きな差があるからだ。 もちろん、小沢はその備えを怠らないだろう。ひとつは検察人脈への介入だ。それは政権発足とともに顕著になるが、一方「国策調査」と公言した民主党への検察陣の存念は底深く、人脈をいじってもどこかで火を噴く要素が常に出てくる。小沢はもともと「裏」の人間で「裏」組織をもっており、多くの反対勢力を黙らせてきた。それが再び動き始めるが、一年もすればそれどころではない、事態が次々に生まれてくる。そして小沢は表舞台から姿を消すことになる。 3.もうひとつは総理大臣となる鳩山の個人献金問題疑惑。当然それが四カ月以降に再燃して収拾のつかない状態となってくる。 これは当然予測されることで、「預言」でも何でもないが、議会の多人数だけで乗り切れないような事態が次々に起こってきて、鳩山内閣そのものの土台が発足四か月目から揺らぎはじめる。 4.今回の選挙で小沢派は百人を超える大派閥となるが、人事をめぐって既に選挙前から小沢の独断専横に対する不満が民主党の中に渦巻いている。その不満が頂点に達するのが、第一回組閣時でここでは自民党以上の工作が行われ、結局すべてを決める小沢に対する不満が各段階に溜まっていく。それが底流となって、一年後には組織的に支離滅裂な状態となり瓦解する。 5.実は民主党政権のスタート前から、政権発足後の人事をめぐる軋轢は始まっている。横浜市長の突然の辞任も、非公式な入閣打診に即応しすぎたためで、小沢の了解を得ない人事はキャンセルとなり梯子をはずされた形となった。その分陰で不満が鬱積したわけで、同様のことは、民主党各所で選挙以前から目立っている。馬鹿馬鹿しいのは民主にするよる「官僚」で、いずれまた一年から一年半で世界が変わるということを見通せないで目先だけで動くのは愚かな限りと言わざるをえない。いずれ、民主党政権は「自民党以下」で「自民党の方がメリハリが効いていた」という日が近未来のうちに必ず来る。 「民主党政権五つの預言」 #
by yuugean
| 2009-08-20 06:32
| 2009
元週刊ポスト編集長の関根進さんの新著「ガンを切らずに10年延命」(ダイヤモンド社・2009年2月)が快進撃を続けている。現在7刷ー8刷のところにあるようだ。これは関根さんが丘永漢さん(作家)のウェブ「HiQ」で連載(毎日)されてきたものを「自癒力」「陰陽力」「医診力」など20のテーマでまとめられ、「ガン」を切らずに生き抜く知恵を体験的にまとめられたもの。
関根さんと言えば今から30数年前、週刊ポストの編集次長当時に何度かお会いしたことがある。私は関根さんには当時のPR会社の上司と一緒にお会いしたので、関根さんの記憶には薄いかもしれないが、私には印象が強かった。繊細で神経が張り詰め力が抜けない感じだった。そのご編集長になられ、見る見る部数を伸ばして週刊ポスト黄金時代を築かれたのだから、時代を見ぬく力がその繊細さのなかに詰まっていたに違いない。私がよくお会いした当時のデスクY氏は、いつもにこにこ人柄の良さを感じさせたが、後に内部の人間に聞くと、仕事では怒髪天を抜く感じで怒り狂う場面も多く恐れられていたというから、週刊誌編集の現場は外部からは窺いしれない、神経の抜けない大変な戦場だったにちがいないという思いがする。 関根さんには最近2-3度お会いした。お会いしてみると、かっての鋭敏な表情は消え、むしろ穏やか、気のよくつく親切な方だった。5月には私がライター系の仕事の時にお世話になっている、元朝日ジャーナル副編のK氏にお会い頂いた。K氏はガンで「化学療法」についてどなたかの意見を聞きたいというので、関根さんにお会い頂いた。また最近私が全然医者にかかっていないことの不便さを感じて、帯津病院の診察を一度受けてみようと思い、関根さんにメールを出したところ、詳細にわたるアドバイスを頂いた。関根さんの療法をかいつまんで縮めてしまうと、「帯津敬三先生」「天仙液」「漢方」「玄米療法」だが、私は関根さんにお会いして、まず「玄米食」に変えた。「天仙液」は私には高価なので、これまで飲んでいた自分の手作り薬酒のなかに、冬虫夏草、霊芝、田七人参、高麗人参、アガリスク、チャーガなどのサプリメントの残りをぶち込んで「地仙液」と称して毎日飲んでいる。漢方についてはもともと薬は漢方しか飲まないでやってきた。あとは「帯津先生」だが、関根さんから詳細なアドバイスを頂いたのでこれから取り組んでいく方針だ。 その意味で私も関根主義のひとりだと思うが、感心するのはまだまだ著作に取り組んでいくエネルギーだ。今年関根さんから「大正霊戦記」をお送り頂いたが、これは350ページの大作で現代史の闇のひとつ「大逆事件」の中で、作家であり牧師であった沖野岩三郎の生涯を追ったもの。沖野岩三郎はあの時代、おのずからも冤罪疑惑を受けながら、作家としての生涯を全うした。沖野は関根さんの母方の祖父にあたるといい、その 生涯の全貌を追おうとする姿勢は、尋常ではない。さらに続編を執筆中といい、70近い高齢でのエネルギーには敬服せざるを得ない。 #
by yuugean
| 2009-06-26 08:15
| 2009
もう終わったことだが、5月10日から6月14日まで生まれたばかりの子猫を預かっていた。5月5日の朝方、埼玉県ふじみ野市の小さな児童公園に40歳台の男が子猫を捨てにきた。その公園の前の家のS君がその一部始終を2階から目撃してしまった。S君はカソリック信者でインドの貧しい人たちを助けた聖女マザーテレサを心から尊敬している。S君は、雨が降ってきそうな公園に猫を捨てる男の一部始終を見ていて捨て置けない気持ちになった。幼い生命がこのままでは確実に消える。それで寒さに震える子猫をとにかく家に連れ帰って、牛乳を与えた。翌日も牛乳を飲まず、排泄をしない子猫を心配して市内の獣医のところに連れていった。そこで、浣腸をしてもらい、猫用ミルクや排せつの仕方を習った。その日からS家の段ボールの中で生活し始めたが、S君はたびたび仕事で東京に行く。その間5-8時間も家を空けることになるが、心やさしいS君は「何とか育ててあげたい」と必死に努力した。しかし、現実はずっと家にいるわけではないし、仕事の行き帰りに時間がかかりすぎて、十分に世話をしてあげられない。そこで、もう市役所に持っていくしかないと思っていた。
S君は飲みながら私に子猫のことを話した。私は、何かの縁があって君のところに来たんだから、最後まで見てあげるべきだ。たとえ、小さな命といえども命はいのち。まっとうさせるのが人間の勤め。その子猫がちゃんと一人前になって、ひとり歩きできるまで、私が飼ってあげる、と彼にいった。それで5月11日に東京都千代田区の私の家に来た。猫を飼った経験はまるでない。 それから1か月ミルクも順調に飲み、体重は毎日増えていった。おしっこやウンチも自分ひとりでできるようになり、ミルクから離乳食への切り替えも問題なく行った。標準よりも1-2週早いペースで進んでいった。そして6月8日にはドライフーズを食べるようになり、12日にはドライフーズだけでも大丈夫となった。もう、家を空けても食事の心配をしなくてよくなった。それで、S君に子猫を引き渡した。元気でやんちゃ、起きているときは部屋を走り回り、疲れるとよく寝た。そんな子猫に育った。体重は800Gになっていた。 #
by yuugean
| 2009-06-20 07:46
| 2009
「吾輩も猫である。名前はまだない。実は勝手に名前をつけられたが、まだ誰もその名を呼んだことはない。
5月5日の朝方、埼玉県ふじみ野市の小さな児童公園に40歳台の男が吾輩を捨てにきた。よほどの事情があったにちがいないと思うが正直よくわからない。その公園の前の家のSさんがその一部始終を2階から目撃してしまった。Sさんはカソリック信者でインドの貧しい人たちを助けた聖女マザーテレサを心から尊敬している。自身決して裕福なわけではないのに、学校に行けないインドの農村の少女に毎月5千円を送っている。奥さんとは10年前に離婚、娘は成人して近くに住み、養護施設に勤めている。娘は心やさしい父を見て育ったせいか、知恵おくれのかわいそうな人たちを世話するという実にやっかいな仕事にも生きがいを見出し、5年前に同じ考えの青年と知り合って職場結婚した。つまり、Sさんは60代初頭で、一人暮らしをし、父親がやっていた損害保険の仕事を引き継いで忙しく出歩いている。Sさんは、雨が降ってきそうな公園に猫を捨てる男の一部始終を見ていて捨て置けない気持ちになった。幼い生命がこのままでは確実に消える。それで寒さに震える子猫(つまり吾輩)をとにかく家に連れ帰って、牛乳を与えた。Sさんはかって娘の為に子犬を飼ったことはあったが、猫は初めての経験だった。翌日も牛乳を飲まず、排泄をしない吾輩を心配して市内の獣医のところに連れていった。そこで、浣腸をしてもらい、猫用ミルクや排せつの仕方を習った。獣医は生後1週間くらいと見立てたので、誕生日を5月1日にし、。名前を「メイ」と名付けた。5月だからという単純な理由(その後「鯉太」と命名された。それも5月5日に拾われたから)。その日からS家の段ボールの中で生活し始めたが、Sさんはたびたび仕事で東京に行く。その間5-8時間も家を空けることになるが、心やさしいSさんは「何とか育ててあげたい」と必死に努力した。しかし、現実はずっと家にいるわけではないし、仕事の行き帰りに時間がかかりすぎて、十分に世話をしてあげられない。そこで、もう市役所に持っていくしかないと思っていた。 ところで、Sさんには20年来の年長の友人Iさんがいた。気があって週のうち3回は会って酒を飲んで2時間ぐらいを過ごしていた。お互いのストレス解消になっていた。Iさんは30台から小さな会社を都内でやっていて、50代にその会社が倒産し、60代になってもともと気の合わなかった奥さんとも別れた。その点がSさんと共通で、世の出来事に関する見方にも共通点があるので、よく飲み、たまには旅行もする仲だった。最近は一緒に太極拳の練習に励んで演武会などにも出た。Sさんは飲みながらIさんに吾輩のことを話した。すると、Iさんは、何かの縁があって君のところに来たんだから、最後まで見てあげるべきだ。たとえ、小さな命といえども命はいのち。まっとうさせるのが人間の勤め。その子猫がちゃんと一人前になって、ひとり歩きできるまで、自分が飼ってあげる、といった。それで5月11日の日に東京都千代田区に連れてこられた。週に1-2回はここにきて二人で自宅で飲んで会話をするので、吾輩はSさんにも会える。Iさんは、20年以上も中国道教の座禅のような修練を続けており、(自分の命も他人の命も大切に)がモットーの物静かな老人だ。そのせいか実年齢より20歳は若く見える。今は現役のころに続けていた、新エネルギーの仕事をボランティアで続けている。家にいることも多いし、仕事で出かけてもどこからでも1時間以内で帰れるので、子猫の面倒を見ることができるが、猫を飼った経験はまるでない。ミルクやりもトイレもまだ稚拙でみちゃおれないが、わが輩を何とか一生懸命育てようという気持ちは伝わる。こうして、吾輩の養育のため2人の高齢者が手を携えて協力していくことになった。吾輩も少し安心して、このごろは寝てばっかりいる、、、。」 #
by yuugean
| 2009-05-13 07:40
| 2009
5月のゴールデンウィークも終わった。1000円で高速道路を走れる特典をめざし、全国的に車での遠出が目立った1週間だった。私は1日の日に、S君とJRで房総の魚を食べに行った。以前テレビで漁業組合が「食堂」を直営していて、魚がおいしいといっていたので一度行ってみたいと思っていた。それは鋸南町の保田漁港にあるということがわかったので、近くの鋸山に登り、その帰りに漁業組合の直営食堂「ばんや」に行った。千葉県に住んでいたおともあるが、鋸山は初めて。東京湾を出入りする船の様子が展望台からよく見えた。石造りの大仏を見て、その近くから出る「ばんや」行きの巡回バスに乗った。バスに乗ったのは、2組で、1組は途中の「保田駅」で降りたため、「ばんや」まで行ったのはわれわれ1組。町の様子も、人影がすくなく、少し心配した。
しかし「ばんや」についてみると、そこは人の群れでごった返していた。ほとんどは車で来て、「ばんや」で食事する連中だった。しばらく待って、席に通され「刺身盛り合わせ」と「さわら塩焼き」を注文したが、さすがに鮮度よくおいしかった。食後はしばらく散策して、漁港内にある「高濃度炭酸温泉」に入り休息。午後4時ごろのと急で東京に帰った。 さて「タオ内丹法」のその後の進展だが、「還虚合道」の修練はまた別の局面を迎えている。以前やっていた「五気朝元」的な、体内神の体外離脱現象は取りやめることにした。この修練をやると、後でなにか残留思念が外に残されている感じがして、頭がぼーとするからだ。 まず下丹田、中丹田を天頂に集め 泥丸に三丹田の「神」が揃う「三華聚頂」を行う。そのまま座せば、「慧光」が現れるが、その光を頭上に出し、徐々に「神」をその光に沿って出していく(「出神」)。「神」がすべて体外に出した「光」の中に収容されると、今度は徐々に「神」の幅を広げ、宇宙の極限まで広げていく。達磨のいう「壁観」というのは、多分こういった、「体外意識」の拡大現象を指しているに違いない。 その後、「体外意識」を自分の身体の周辺に下ろしてきて、「体外意識」で、自分の身体を完全に包み込む。 しばらく「無為自然」におくと、身体は下半身から徐々に消えて、電磁的な波動のみとなる。この「観想」は、少々オカルト的だが常にこの段階にはついて回る。 「還虚合道」の修練はまだ始まったばかり。今後の予測は未知の世界であり、どんな展開を見せるのか図ることができない #
by yuugean
| 2009-05-07 11:01
| 2009
今朝NHKで「この人にトキメキ」という番組の中でゴルファーの杉原さんの「がんと闘う」という番組をやっていたので、瞑想途中ながらついつい見入ってしまった。オールドゴルファーに懐かしい杉原さん。独特のスタイルで正確なパットを打つ打法は印象に残っている。現在では誰もやらないような変則的な打ち方だが、初期の日本のゴルファーの中には結構多かった。まだ黎明期だったゴルフ分野。現在の石川遼のような流れるようなフォームからは、ちょっと想像できないが、プロといえども我流のゴルフをやるしかない時代だったのだ。その杉原さんが「がん」だったとは知らなかったが、どうも「手術をやらず」(私と一緒)現在は放射線と粒子線の照射で治療しているという。途中から番組を見たのでいつ杉原さんががんにかかられたのかわからないが、話の様子だと、前立腺がんが最初で「免疫療法」を行ったが、リンパに転移したということだ。それで、現在はX線と粒子線の照射を行っているという。粒子線の照射は、前立腺がんに対してで36回行い経過は良好。しかしX線の方は身体へのダメージが大きいのでうまく行っていないという。治療方法を医者任せにせず自分の方法で選んできた杉原さん。いまでも現役プロゴルファーとして試合に出場するため毎日の練習をかかさない。
私も最初から「手術」の道を離れ、現在でも「治療法が確立していない」脊索腫に対して自分の判断で進めてきた。最初は十全大補湯など漢方薬とアガリスク、チャーガ、冬虫夏草などのサプリメント。その後十全大補湯、ラジウム照射、ナノバブル水、そして気功。これでいい方向に行っているように思う。ことに自分で行う「内気功」は徐々に脊索腫のシマを小さくして行っている気がする。ある程度行ったら一度大学病院でMRIを取ってもらおうかと考えている。 #
by yuugean
| 2009-03-27 11:07
| 2009
#
by yuugean
| 2009-03-06 12:02
| 2009
2009年の幕開けは波乱の幕開け。騒然とした世相の混乱はますます深まっていく気配がある。ただ今回の騒乱は、いずれ来る破局だった。それを知らずにいたか、知っていながら知らないフリをしてやってきたかのどちらかだ。もとになった仕組みは、危うさに満ちた「サブプライムローン」。何が「サブ」かというと、プライムにはなり得ない低所得者を対象にしたローンだったからだ。にもかかわらずその危うさを「証券化」で隠蔽し、「格付け」で装飾して、立派な金融商品として売り出し、世界中の金融機関が利回りの良さにつられて大量に買い込んだ。アメリカの「利回り」万能主義、金融何でもあり戦略がそれを増長させ、その背景を見抜けない、多くの金融機関がそれにのめりこんだ。元を正せば、これは誰かが「ババ」を掴むねずみ講のような仕組みだったが、それを「金融工学」にしたて上げ、「ス-パーコンピュータ」で色づけして世界の金融機関を信用させていただけだ。日本でも全農や東京三菱など多くの金融機関が信用して買い込み、やまと生命は資産をつぎ込んで破綻した。しかしこれはウォールストリートを胴元にした大博打で、最後までそれに乗ったところが大打撃を受けた。途中で抜けたところには儲けているところもあるはずで全てが損をしたわけではない。
結果として世界的に広がった「信用収縮」は、まずローンとカードの世界を直撃した。住宅、車のみならず今日では世界的に広がっているローン、カード社会の不調はトヨタなど輸出産業を減産に追い込み、派遣切りが進行した。この不調は3年は続くというのが定説だが、多くは耐えて忍ぶしかない。もっともこの円高は逆にいくつかの利点をもたらせているので、企業も個人も柔軟に対応していけばあるいは道が開ける可能性があるかも知れない。 1月1日朝6時45分頃から東の空が赤みを増し、やがて真っ赤な太陽が日本橋の三井ビルの横に昇り始めた。右手には東京駅、丸の内のビル群が並んでおり、そのビル の間から初日の出が昇っていく。 昨夜大晦日は、紅白歌合戦が終わったあと、友人と近くの三崎神社に行った。12時から初詣が始まるので神社の間には既に長い行列が出来ていた。寒い夜にも係わらず、続々と近隣の住人たちが集まってくる。見上げれば、後楽園のドームホテルにも宿泊客がいるようで、半分ぐらいの部屋に明かりがついている。三崎神社はいかにも地元ッ子たちの神社という感じで、参拝した後には氏子会の人達が酒を振舞ってくれたり、つき立ての餅を頂いたりできる。これは毎年同じことだ。こうして今年も始まった。 ![]() #
by yuugean
| 2009-01-01 09:56
| 2009
年末になると、このところ毎年のように「喪中はがき」が舞い込む。ヒトの生きる、死ぬ、、それは人の運命。自分で決められるものではない。そうはわかっていても、かって共に飲み、夜を通じて語り合った友人たちが、この世界から去っていってしまうのは寂しい。今年、日立系企業の常務をやって、その後事件に巻き込まれて不動産をやっていたM君が5月にがんで死んだ。このことは既に6月頃に書いた。鎌倉の彼の自宅にお線香を上げに行って、旧知の奥さんとM君についていろりろ語った。彼は不動産の世界をいろいろ開いてくれたが、同時に柳田国男とか平田篤胤とかの世界も開いてくれた。その彼もがんで亡くなった。
12月に入ってもうひとり「喪中ハガキ」が舞い込んだのはH君だ。奥さんからで、今年5月にガンで亡くなったという知らせだった。 彼とは若い頃、同じPR会社にいて、時々暇を見つけては青山などで飲んだ。深夜に及ぶこともあった。ある時、彼と飲んだあと東海道線の終電車に乗って、眠ってしまい、当時住んでいた辻堂でおりずに平塚まで行ったことがあった。平塚で気づいて歩きで平塚から辻堂まで深夜線路の上を歩いて帰った。途中、相模川の長い鉄橋を渡るときは、電車が来ないか気を配りながら、長く高い鉄橋をこわごわ渡りきって自宅まで2時間かけて深夜の道を帰ったのを覚えている。 彼は日本デザインセンターで営業をやっていたこともあり、都会的センスを持った若者だったが、同時に空手やスキーを長年やっているアスリートでもあった。PR会社にいるとき、大手上場会社にコネで途中入社する話が持ち上がり、その入社論文を二人で誰もいなくなった会社に残って仕上げたのを思い出す。彼はそれをずっと恩に感じていた。無事その大手会社に入り、広報に勤め、葵会館で行われた結婚式にも出席した。彼はその後産業資材部ー松山支店ー医薬品事業部と転勤し、ガンを発病した。このころは年賀状だけのやりとりになっていた。 私はずっと気になっていたので、昨年9月に電話し、10月2日神田駅で会った。その時あったH君は若い頃と少しも替わらない元気さだった。奥さんと成人した娘さん2人、そして大きな犬を抱いている彼の幸せそうな写真を見せてくれた。幸せそうな中流家庭の姿がそこにあった。神田の飲み屋でいろいろ話をして旧交を温め、また会いましょうといって別れた。それが去年の10月2日。そして今年5月に彼はなくなっていた。翌日彼からメールが来た。 >早々にHPのメールありがとうございました。 >こちらこそ楽しく興味深い時間に感謝しています。 >20代前半の世の中をまったく判っていない若造へ、仕事や世の仕組みの >一端をお教えいただいた事、出来の悪かった仕事の代筆をして頂いた事 >などなど懐かしくまた昨日の事の様に思い出されました。 >35~6年振りにお互い元気でお会いできた事を天に感謝する >と共に人の縁を実感した次第です。 >チャンスをつくりまたお会いしましょう。 H 拝 これが彼との最後の交信となった。H君、冥福を祈る。 #
by yuugean
| 2008-12-02 06:21
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