遊化の森

オウム裁判

◆「時々断片」

  さて昨日は『オウム裁判』最大のヤマ場麻原判決でした。丁度二時前後に霞ヶ関に
いたのですが、地下鉄の駅になぜかテレビ・クルーが何社もいました。後で考える
と各班に分かれて撮っていたのですね。地下鉄霞が関駅が「サリン事件」の彼らの
最終目標だったのですから、今思うとぞっとします。もし時間がずれていれば遭っ
ていたかも知れない思うと、。閉鎖的な環境の中でイメージが膨らんでいくと、と
んでもない社会的事件をも引き起こしてしまうという事をこの「オウム」事件は示
しています。私達の若い頃は榛名山中で何人かの仲間を生き埋めにしたり、厳冬の
山中で木に縛り付けて12名を殺害した「連合赤軍事件」(永田洋子・森恒夫)が
同様に大きな意味をもっていました。閉鎖的な環境が生み出した「悪」のイメージ
がその環境の中で膨大に膨らんでいく。
  本来は一人一人は感受性に富み、頭もいい人間が首謀者たちの思いのまま、
自己コントロールを失ってそれに加わっていく。
この「構図」は全く同じですね。そしてオウムもまた、それが産み出した社会状況
と深く結びついているところも同じです。オウムに行った高学歴の学業優秀な人
達。おそらく思うに、彼らはその鋭すぎる感性の為に、「家庭」の中にも、あるい
は「ビジネス社会」の中にも「身」を置く場所が無かったために「集団」の中に居
場所を見つけたのでしょう。同時に麻原氏の中にある種の「父性」を見つけ従った
のでしょう。人間の何割かは実は「支配されたがっている」と私は考えています。
潜在意識の中で強いもの、強そうに見えるものに従いたいという意識を何%かの
人間は潜在的に持っているのです。古いキリスト教信仰や軍国主義、共産主義
など権力志向の強い集団主義が成り立つのは、実は何%かの人間の潜在意識の
中に「それ」があるからです。その元は何かというと「自我意識」「個我意識」
です。カリスマ的な人物が持つ病的な自己顕示欲と支配欲、それと強い父性を
求め「被支配」に身を委ねて、その中でエリートとしての自己欲を満たしたい
という潜在意識とが結びついたところにオウムがあると思います。「修行」に
よって何らかの他人にない「パワー」を身につけ一般人とは違う能力を発揮
したいというのも、これは変形した「自己顕示欲」「個我意識」にほかなりま
せん。ここに全くないのは「他者への思い」です。もし「他者への思い」が少し
でもあれば、人を拉致したり、家族ごと殺害したり、無差別殺人のサリンを地
下鉄でばらまいたり、それを命じたりは決して出来ないはずです。人が生きて
もせいぜい100年。その間にオレがオレがという「個我意識」から脱却して
あらゆる「くびき」から解放され、自己をも離れて、本当の「自由」を手に入
れること。それが本当の「修行」の目的ではないかと思うのですが、、、。
現在も「家」にも「ビジネス社会」にも自分の「居場所」がないという状況
は少しも変わっていません。しかし「個我意識」を滅却することを目指し、
同時に「他者への視点」を持ち続ければ側道に落ち込む事もないと思うのです。
by yuugean | 2004-02-28 15:29 | 2004
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遊びをせんとて生まれける  学びせんとて生まれける

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