遊化の森

ノイズを消す

このところ寒気が日本を覆っている。今年に入り既に5日。相変わらず、私事多忙、正月休みもそれほど、ゆっくりというわけには行かなかった。しかし大晦日には例年通りゆっくり「湯」に入り、その後「蕎麦」を食べ、夜は「紅白」を見ながら寝た。1日は知人宅へ行き、1日を過ごす。2日は今取りかかっている仕事を少々。3日には知人と「初詣」のつもりで、最初めぼしをつけた地元の神社に行くつもりが、バスを乗り間違えて、どんどん知らない街へバスは入っていくので、途中下車。もと来た場所に戻ろうと歩いていると、道路わきに石の鳥居があり、立派な参道がずっと続いている。その先に赤い鳥居があり、小さな橋を渡ると小ぶりのお堂が二つ、三つ。案内板を見ると、江戸時代に徳川家光から所領を拝領、このあたりの7つの村が共同でお祭りした由緒ある「鎮守さま」。行きがかりで出会った「初詣」だが、これも何かの縁と思い丁重にお祈りした。4日は自宅で「仕事」の続き。5日から通常通りの仕事に取りかかている。さて「寒い朝」だが、5時すぎ起床、いつもどおりコーヒー沸かし、その他儀礼少々。坐忘ー出神の修練はいつも通り。ただ、自分的には昨年末から今年にかけては、少々変化しつつある。ひとつは「坐忘」において、深度が深まると、意識の中で「身体」の部分は完全に消えている。身体の部分は消えて外の大気と同様な状況に「意識」の中には写っている。ただ「天頂」の部分と、両足の足底の部分が白く残っている。これは思うにこの部分がある種の「気」・「光」の「受信」部分で、天と地の「気」を「受信」しているためではないかと思われる。「坐忘」も「瞑想」も同様だが、深度を進めるということはつまり、「ノイズを消す」作業ではないかと思う。なぜ、そう思うかというと、波長の長い微弱な「光」は通常な方法では捉えることが出来ない。「分光計」でしかその波形を捉えることは出来ないが、これは大気中には実にさまざまな「光」が混在しているため。そこでたとえば10ミクロンの「光」を抽出するためには、「分光計」で他の波長の「光」を消し去っていって、残ったものが目指す「光」だということになる。「坐忘」や「瞑想」で深度を深めるということは、これと同様で「ノイズを消す」作業に他ならないと思う。「ノイズを消して」いけば、身体の部分から出ている「ノイズ」はなくなり、真っ暗、あるいは「無」の状況となり、その時点でもまだ「ノイズ」を発しているのが、常に天地の「気」を受信している(?)「天頂」と「足裏」の部分が「意識」の中で「白く」写るのではなかろうか?という気がする。
by yuugean | 2005-01-05 16:05 | 2005
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